ついてない時
なんか最近なにやってもダメだな〜みたいな時がある。毎日なんらかのミスをやらかしたりとか。そのミスも結局自分がやったことの結果なので、いま悪いことが起こってる、てのじゃなくて、「忙しさ」にかまけていろいろなことをおろそかにしたツケが回っているだけである。
そういう水漏れみたいなことが、一個ならいいけど、何個も続くと、自分に腹を立てるのに飽きたらず、「周りが悪い」「お前が悪い」みたいな気持ちになってくる。そうすると自分は信用できないわ、周りも信用できないわ、ということで、どんどん心がささくれだってくる。愛は融合で、憎しみとは分離だという。自分がなにものからも分離していると思う時にネガティブな感情が沸き起こる。それはつまり孤独な気持ちになっているということだ。ここ何日か、まさにそういう気持ちだった。
この「なんかついてない」みたいな時は、ちょっとラジオのチューニングがズレてるみたいな感じで、なんらかの理由で自分のチューニングがちょっとズレてしまっている。だからちょっと何かをいじると平常運転に戻れたりするのだが、なんせチューニングがずれているので、そのきっかけを自分で作るのは難しい。
実は日曜の夜に、帰省で寄った、宮城県の松島海岸駅にあるコインロッカーにバッグとその日買ったものを入れた買い物袋を入れた。そんで帰りにバッグだけを取って、買い物袋を忘れて電車に飛び乗ってしまった。ロッカーの中に忘れ物をしたと気づいたのはその日の夜中だった。
駅に忘れ物をしたのならば鉄道会社の管轄になるので話が簡単なのだが、ロッカーは別会社の管轄になる。そして鉄道駅の電話番号は一般公開されておらず、駅にあるキオスクが管理していたりするらしい。この責任の所在はあまりはっきりしていなくて、どこかに連絡すると、「それはうちじゃない」「それはうちじゃない」ということで、買い物袋の行方を探すのはたらい回しを極めた。もう、完全に一連のついてないやつである。
しかし、何本目かのたらい回しの末に電話口に出たおじさんが凍てついた私の心を融解させた。仙台弁のイントネーションまるだしの標準語をしゃべるおじさんは、わたしに「あ、さっき電話くれたけど切れちゃった人ね。ご苦労さまです」と言った。わたしが勝手に忘れ物をして、おじさんは時間を割いて対応してくれてるのに、ご苦労様って言われた!!スゴイ!おじさんはのほほんとした声でわたしの事情をふんふんと聞いてくれた。わたしはものすごく感動してしまって、泣くのをこらえるのに必死だった。
そうだ宮城の人はものすごく親切なのである。それを思い出した。そしてこの理由のわからない鬱屈は、本来楽しいはずの「帰省」に義務感が先立ってしまって身構えてしまい、楽しいと思えることが少なかったことによるものだということにも気づいた。その目線で宮城全体を捉えてしまっていることを申し訳ないと思った。そうしてわたしのずれたチューニングは、知らないおじさんとの電話一本で治癒されたのである。
ていねいに仕事をする人は、こうやってどこかで人を救っているんだろう。ありがたいことだ。その後家を出たら、道路工事のおじさんが笑いかけてくれたように思い、これで自分のチューニングは完全に治ったと思った。いつかどこかでつまづいても、こうやって自分で自分に手当をして傷を治していくことができるようになればいい。