オメラスから

息子の体操教室のお迎えの時間は近隣の実業高校の下校時間と重なり、帰りは線路沿いを駅まで続く高校生の男子、女子の長い行列を後ろから追い越していきながら、息子を後ろに乗せた自転車を走らせることになる。
ある若者たちは数人で群れをつくり楽しそうに笑いながら、女子たちはだいたい2、3人で親密そうに話しながら、歩いていくその姿を見ていると、ああ、日本の若者は幸せだ、皆何の屈託もなしに楽しそうだ、さっき目にしていた、ユニセフの発表した日本の子どもの精神的幸福度ワースト2位、なんて本当じゃないだろう、と思えてくる。
だがときどき、独りで歩いている若者がいる。昨日も見かけ、先日も見かけて、やはりそうだったのだが、白人の男の子らしい学生が、独り歩いている。また追い越しながらしばらく行くと、黒人の血が入っているらしい女の子が、やはり、独りで歩いている。学生の多いその高校で、うるさいほどに群れになりながら歩いているのに、その子たちだけは先日も見かけたときもやはり、独りで、できるだけ足早に、そんなふうにもみえてしまう、そんなふうに、帰途についていた。
追い越しながら私は、その子たちに声を掛けたかった。なぜ彼らと一緒に帰ってあげる子がいないのだろう、私ならむしろ彼らとぜったいに友達になりたい、なるだろう、なぜなら彼らの話は、彼らと話すことはぜったいに面白いに違いない、ほかの子供たちとはきっと違ったふうに世界を見ているから‥
大体が同質の群れに見えてしまう学生たちが楽しそうに歩く様子は、日本の平和さを物語っているようで、どこかほっとすると同時に、もし自分がそのなかにいたらと、ときに息苦しく所在ない時間も過ごした学生の頃を思い出し、またそんなふうにあからさまに馴染めていない子を見ると、今からでも後ろから声をかけ、いっそ友達になってあげたい、などと思うのだ。少なくとも自分の子供たちには、そういう子に声をかけ友達になってあげられる子に育ってほしいし、それは試験でいい点を取るよりも何倍何十倍も大事なことなんじゃないかと、思うのだ。
その高校生たちの屈託のない下校の姿が、ある意味で今の日本の姿をあらわしているような気がして、考えてしまった。


ル=グウィンの短編小説に「オメラスから歩み去る人々」というのがある。オメラスの人々は皆幸せに、なに不自由なく暮らしている。
ただある時、オメラスに暮らす人々は、ある一人の虐げられた子供の存在を知る。その子どもの存在無しには、オメラスの幸福な日々の暮らしはありえないという条理も知る。
その後人々はどうするか‥多くの住民は、そのことを受け入れ、知りながらそこでの幸福な暮らしを続けていく、だが時おり、一人、ふたり、だが連れ立つこともなくそれそれが、ふとその街を去っていく決意をし、旅立っていくそうだ。行先はわからない、だが本人たちは、その行く先をわかっているらしい。あるいはそれは、ただ旅人として生きることなのかもしれない。オメラスを歩み去る人々。
もちろんこれは比喩である。
今の日本の社会を思うとき、最近ではとみにこの話を思い出したりする。オメラスを歩み去る、それはどういうことなのか、と。

あるいはまたその続きを、その比喩のなかで、または外で、考えてみたい、などと思うのだ。

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