ワーグナー・プロジェクトをめぐるあれこれ①

最近明氏が数年ぶりの劇場帰還でHIP-HOPをfeature した作品を作るというのをきっかけに、私も自分にとっての"音楽"とか"音楽"そのものあるいは"唄(歌)"について考えを巡らすことが多い。

わりと幼少時からピアノやら中学からはチェロ、ドラムなど楽器にも親しんできたが、最終的に私にとっての"音楽"は"唄"だった。

子供の頃から親しんだシャンソンを唄うことから始め、アルゼンチンタンゴに出会い歌の道に学んだ。歌の諸要素を学んだが最も確かなことはシンプルで歌う上で身体が楽器だということ。

「歌」の世界からほぼそれだけを掴み残して離れ、声を軸とするパフォーマンス/舞台の活動にシフトしていたが、子育てをきっかけに蟻か、せいぜい猫のように地べたに足を着けた、自分の生活圏からめったに出ない生活を送るにつれ、それまで身を置き親しんできたおおよその表現の世界がどんどん遠のき。

縁遠くなるそれと同時にふとした拍子に歌とは何か、自分はなぜ歌うのか、歌いたいのか、どこへ向かって歌うのかなどという問いが幾度となく浮かび上がる。

できれば壺に入れて静かにしまっておきたい衝動、日々を穏やかに過ごしたいなら触れないほうがいい、むしろ音楽を敢えて聴かない日々。それも平気になる。気付けば数年。

上の子の手が離れほとんど弾けなくなっていたピアノを鍵盤の足りないキーボードで一からやり直し好きな曲を弾いたり、18才から長年連れ添いながら弾いてこなかった、つまり弾けなかったギターを練習して多少弾けるようになったり。新しい光が見えてきたところで下の子が生まれまた振り出しに戻り。

下の子も先日3才になり多少手が離れてきた。 そんな折に明君がワーグナーとHIP-HOP だという(実際は2年程も前から準備していたらしい)。 私はhip-hopのことはほとんど知らなかったが、 最近はその影響でhip-hopを含めた"音楽"のことをいろいろと考えたりする。

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ラップと歌とではいったい何が違うのか。ということを考える。

楽曲やパフォーマンスの側面からも色々と違いは言えるだろうが、重なるところも多い。はっきりしたメロディーの有り無しというのがいちばんの違いだろうが、緩やかな旋律を持ったラップの楽曲も多い。多分本質的な違いはそこではないようだと思う。

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ところで最近歌の、唄の本質に触れる映画を見た。『サーミの血』。

サーミという北欧の民族の唄、彼らはjoik という。生活の中に身近にある唄。状況の描写であったり、お祝いであったり、そのときの身近なものごとをベースになる節に乗せて唄にする。その節は人により微妙に異なる。

回想の冒頭部分、主人公の14才の女の子エレ・マリャが、山でトナカイを追うサーミの暮らしからやはり山のなかの寄宿学校へ向かう。一緒に行く妹はその寂しさに泣き通している。小さなボートで湖を渡るとき、エレ・マリャは妹に乞われてjoikを唄う。"妹がボートで泣いているよ‥"と。

そしてそのときエレ・マリャか、あるいは妹が言ったのか、「joikを唄う(=joikをする)ときだけ私の心は故郷に帰る」と。

蔑視と同化政策に抗いサーミ人であることから抜け出し家族を捨て嘘を突き通してでも生き抜こうとするエレ・マリャ。「見世物のような暮らしは嫌だ」と言い放ち名前さえ捨てて彼女が守ろうとしたのはおそらく自分自身の尊厳か。故郷に戻りトナカイたちとの暮らしを守り一生を終える妹。

湖を渡るボートでjoikを唄う妹とのシーンが、後になればエレ・マリャに寄り添うこの痛すぎる程の映画で唯一の救いともなる。

joik を唄うときだけ私の心は故郷に帰る。それがたぶん唄というものの本質であり力だ。 このところ気に入ってよく聞いているjoikの唄がある。やはりトナカイ飼いの暮らしをしているJon Henrik という青年のすばらしい唄だ。

これを聞いたとき、この大きなホール会場が彼の歌声によって トナカイを追う彼の故郷である渓谷へと変容していくのをありありと感じる。 歌/唄というのはそういう力がある。 このオーディション/スター誕生番組で彼は一躍スウェーデンの国民的スターになったようだ。

だがここに罠があった。国民的スター‥Youtubeをみているとその後の彼の唄の映像などたくさん出ている。過剰な演出のなかでサーミの民族衣装をアレンジした衣装で歌う。ある種強要される派手な身振りを加えて歌う。熱狂する観客が生け贄を求め奪う姿にも見えてくる‥

聴衆は彼の唄を殺しその魂の欠片をポケットに入れたいのだ。彼の民族の出と、その熱狂のコントラストがちょっと日本のシーンではあり得ないもので驚くと同時に、その後サーミの民族としての迫害、同化という名の暴力の歴史を知るにつけそれがある種の罪滅ぼしの儀式のようにさえ見えてくる。

いやそんなことは誰も思ってはいない。彼らはただ彼の唄を聞きたいだけなのだ。心からの感動と称賛を伝えたいだけなのだ。 ただあの大きなホールで、劇場で、あるいは野外劇場で、彼の唄はその根を失い、そこを彼の故郷に変える力を失っている。その出自からあまりに純粋で素朴な彼の唄は。

これはただ私の感想であって、その後の彼の暮らしのことも知らないが、彼の唄を守るためには彼の暮らしを彼の根としてまた誇りを持って暮らしてほしいとつい願ってしまう。 さて‥ 唄とラップの話だった。

こんなふうに唄には素朴で場を変えてしまう力があるが、劇場という場に乗せられてしまうとその命を保つのが難しいことが多い。

Rock以降Pop musicにはそれが前提とされた強さは勿論備えているだろうけれど、そこで出来ることの限界もある。"アーティスト"と"ファン"のMassな関係性を崩すことは多分難しく、そのことがそれらの音楽性を規定しないという訳にはいかない。

そこで出てきたのがHip-hop music であるらしい。彼らの出自はストリートであり、そこがおそらく彼らの帰る場所。 身近なものごとを唄い語り(=rapし)、即興性を大事にする。 それはサーミのjoikの有りようと似ているようにも私には見える。

ちなみにラップという言葉の語源はスウェーデン語だという説があるらしい。サーミ人の外からの呼称はラップ人であり、これには侮蔑のニュアンスがあるとして今では使われないようだが。

アメリカの黒人発祥のHip-hop musicだが、ひょっとしたらこんなルーツにも繋がっている‥?これはあくまで私が遊び心で引く補助線に過ぎないが。 劇場をストリートにしようというワーグナー・プロジェクトにはそんな観点からも、期待せずにはいられない。

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