筒井作品を少し読む
本棚を整頓した。中学生頃から少しずつ、貴重なお小遣いで買い集めた単行本を始め、大人になって中古や、正規の値段で買い足したのもある。200円台から、700円にもなっている。(ずいぶん値上がりしたなあ)
筒井康隆氏の作品「原始人」を読んだ。小編が詰まっている。読んだ、というか、目を通した、かもしれない。没頭するのが難しい。おそらく「この作品はどういう手法の実験なんだろう?」と思って読んでいるからだろう。
例えば作品を通して読点がたまにしか出てこない書き方に気が付く。(そう、この文章のように)読点がなくても理解できる文章が続くが、たまに使われているものだから、理由を考えてしまう。
それから「何についての作品か」を考え、
「どういうきっかけでこの作品が書かれたのか」を考える。
ある作品には多くの瓦の種類が出てくる。瓦の種類など知らないから、光景は目に浮かばない。いったい何がおきているのか、主人公の行動の動機以外は把握できないまま、読み進む。ストーリーが大事なのか、瓦が大事なのか。文体の特徴よりも、瓦について書きたいと思ったのだろうか、瓦を調べていてこうなったのだろうか、云々。
歩き方もそうだった。知らない筋肉の名前が沢山出てくる。
筒井康隆氏が文体について実験されている、ということは、どこかで読んだことがある気がする。読点がないか、極端に少ない作品もいくつかあるはずだ。延々と続く文章、水と言う言葉で埋まるページ(の中に魚)、あるいは使える「音」(ひらがな)が、章ごとにひとつづつ減っていく作品があったことをぼんやり記憶している。
私は、かつて夢中になった作家の作品を何度も読む。目の前には、単行本が山のようにあるが、同じ作家の作品である。漫画も、同じ。こちらが年齢を経て読み返すのは、面白いと思っている。自分の反応が違うからだ。
ただ、昔のように没頭できない気がして来た。
私は舞台において、舞台裏、練習の組み方等々、いわゆるプロセスに興味がある。もしかしたら出版作品にも、同様にプロセスの興味が強くなってきたのかもしれない。
ジュブナイルは好きだし、七瀬シリーズは手放せない。重い内容の作品に近寄れる自信がないのは、年のせいかもしれない。
自分はどんな読書家になるのだろうか。今後、ショートショート以外の作品は読めるのだろうか。