阿弥陀仏の正体
『歎異抄(たんにしょう)』は
唯円さんが師匠・親鸞さんのコトバを
まとめた書物らしい。
「ワタクシはこう聞きました」という
「如是我聞(にょぜがもん)」方式。
そして急にどうしたのか
その『歎異抄』を読んでいたら
今のところどう読んでも
「宇宙の法則的なこと言ってたんだな…」
としか思えなくなって私訳してみた。
とりえあず第一条だけ。
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『歎異抄』 第一条
(原文①)
弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて
往生をばとぐるなりと信じて
念仏まふさんとおもいたつこゝろのおこるとき
すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)に
あづけしめたまふなり
(私訳①)
宇宙の法則の不思議さに気づいて
人生はもっと生きやすくなるはずだと信じ
そのしくみを思い出し
信じようという気持ちになると
宇宙はその願いに瞬時に応えてくれます
(原文②)弥陀の本願には
老少・善悪のひとをえらばれず
ただ信心を要とすとしるべし
(私訳②)
宇宙の法則は老いも若いも
善人悪人も関係なく
何ひとつ誰ひとり
あてはまらないということはありません
ただその法則を信じる
という心が必要なだけなのです
(原文③)そのゆへは
罪悪深重(ざいあくじんじゅう)
煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にまします
(私訳③)なぜなら宇宙の法則は
罪悪の重さに苦しんでいる人々や
煩悩に苦しんでいる人々を
悩みから解放するための
すべての人にあてはまる
法則だからです
(原文④)しかれば本願を信ぜんには
他の善も要にあらず
念仏にまさるべき善なきゆへに
(私訳④)なので宇宙の法則を信じるために
何か特別なことをする必要はありません
宇宙の法則を思い出し
それを信じること以上に
大切なことなどないからです
(原文⑤)悪をもおそるべからず
弥陀の本願をさまたぐるほどの
悪なきゆへにと云々
(私訳⑤)悪をも恐れる必要はありません
宇宙の法則を妨げるような悪は
存在しないのですから
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以上もっと注釈付けたり
加えたいこともあるし
自分でも雑な印象だけど
簡単に私訳すると
こんな感じ( ̄▽ ̄)←ちゃんとやれ
親鸞さんや唯円さんが
宇宙の法則のことを
把握していたかどうか不明だし
知りようがないけど
おそらく
同じことを違うコトバで
信じてたんだと思う。
「阿弥陀仏」というと
何か人格的な存在で
意思や形を持った人間のように
思い込んでしまっていたけど
(長年そんなカタチで認識されてきたから)
元々は宇宙のしくみや法則のことを
仏像や曼荼羅のように
わかりやすく擬人化・形式化したものだということを
すっかり忘れていた(;´Д`)ノ
南無阿弥陀仏
なむあみだぶつ
と唱えるのはイコール
宇宙の法則(アミダブツ)を
信じます(ナム)♪
と唱えているということ。
念仏するということは
イコール宇宙の法則を思い出し
信じるということ。
気楽になれるしくみを本当は知っているのに
日常の煩雑さに追われて嵐に飲まれる私たちが
それを忘れないように
おまじないのように
繰り返す行為のこと。
その結果めっちゃ気楽に何でもありの
「本来の自分」「ほんとうの自分」
を生きられるようになる。←ここ大切
(これが「極楽浄土に往生する」という意味)
は~!
だからあんなに念仏信仰が
流行ったし残ってきたんだな。
みんな忘れてるだけで
心の奥底では分かってることだから
思い出そう思い出そう
ほんとうの自分を生きようと
なんまんだぶ・なんまんだぶ
と唱えてきたんだな~
と突然かつ勝手に納得した。
宇宙の法則というのは
ブッダやキリスト、バシャールなんかが
共通して伝えてきてくれたこと。
その辺はまた気が向いたら
まとめてみよう。
※念仏を唱える理由へつづく