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滅私 | 羽田圭介

巧みな収納術よりも、なにも置いていない棚にぞくぞくするタイプの私。
ミニマリストにはほど遠いけれど、物が少ないほうが心地いい。

ミニマリスト系のブログをひたすら漁った。なんだか違うなあと思うのは、物を減らすことが目的になっている人。
物を減らすのは手段だと思う。

「楽って、そんなに楽してなにがしたいの?」

p91.

しなくていいことを手放して、やりたいことができるようにする。
私は暮らしを整理し、物を減らした。
ところで、やりたいことってなんだっけ。

具体的なイメージはなく、なにかが変わるだろうという期待だけだったのだけれど。
好きな物、苦手な物、やりたいこと、やりたくないことの輪郭がはっきりしたのが最大の効果だった。それと、ガチャガチャした空間を避けるようになって心がザワつかなくなった。

自分の裁量で時間を使える。さあなにをしよう。なんでもできるぞ。
そこで読書を復活させた。
やっぱり私は本が好きだ。

「身軽志向だった人間が、バンと土地を買おうとしているんだから、極端に変わろうとしすぎてるよね」
「いや、同じでしょう、その極端さが」

p152.

ブログを徘徊しているときに思ったコレ違う感が、極端、思考が。
私が好きだなと思った人は皆、家族が居心地が悪くなるほど減らさない、季節のイベントは楽しみたい、子供が興味もったことはやらせたい、というようなゆとりや遊びがある暮らし方だった。

ミニマリストというと、物を極端に減らすことの方に目がいきますが、本質の部分にあるのは、それが最も手っ取り早く環境を変える方法だということだと、僕は捉えています。

日経BOOKPLUS 著者の仕事の哲学
羽田圭介「ミニマリストの流行は人生を手早く変えたい欲求の表れ」

主人公には最後まで感情移入できず。
地元の商店街のお婆さんに塩を撒かれる。スプーンで目をくり貫かせても気に留めない。気に留めないゆえに詳しい描写はほとんどなかったけれど、君がやってきたことは相当ひどい。『悪の教典』のハスミンとも違う。顔がないから、かな。

余談。
とある動画での羽田圭介氏による『純文学とは』が印象的だった。
純文学とは、複雑な感情を真剣に観察し、整理されないままのもの。
起承転結に縛られない。起起起起でも可。
展開が予測できる約束された感情にならない。
なんでもありだから、自由。