連作短編小説「婿さんにいってもいいか」12月
【十二月 年越しの盃】
「大晦日なのに勤務たぁ、栄子ちゃんもついとらんねぇ」
老人福祉施設・桃玉の家ロビーで、シノさんがいつもの口調で呟いた。二人しかいない閑散とした空間に、テレビは紅白歌合戦を流している。
「大晦日なのに私と二人ってのも、シノさんもついとらんねぇ」
栄子も負けじと言い返した。
盆や正月には息子や娘たちの元に帰省するお年寄りも多いなか、身よりのない人や、あっても様々な事情で身を寄せることができない人たちが幾人か桃玉の家で年越しする。逆に正月早々に訪問してくる子供や孫たちもいる。年末年始は人の出入りも多いが、さすがに大晦日の夜ともなると静かになっていた。
「敬太もなかなかやるもんだねぇ」
ロビーに飾られている特大のしめ縄を見上げ、シノさんは微笑んだ。ホームの玄関にも立派なしめ縄が飾られているのだが、三日ほど前に敬太が『僕が作ったんじゃけぇ』と持ち込んできたのだ。栄子の祖父の手ほどきを受け作りあげたらしい。
「あちこち、藁がぴんぴん飛び跳ねて元気で、ほんに、敬太そっくりじゃねぇ」
栄子もクスクス笑う。
納屋で祖父相手に格闘してると思ったら、こんな創作物をこしらえていたとは。『足の指が裂けそうじゃあやぁ』と母屋でさすっていた姿を思いだす。
「死んだ亭主様もね、」シノさんはしめ縄を見上げたまま続けた。「しめ縄作りには凝る人じゃったんよ」
「へぇ」シノさんが亡くなったご主人の話をするのは珍しい。その先をうながすように栄子は頷いた。
「納得のいくウラジロ一枚を探し求めて一週間山を歩いたりしてねぇ」シノさんの口元に柔らかい微笑みが広がる。「嫁いできた最初の年に、一緒に山を歩いて帰ってきたら、姑さんにえらい叱られてねぇ。この忙しい年の暮れにどこほっつき歩いとったんじゃあいうて。そいでも、舅さんが同じ様に楽しんで物つくるのが好きな人じゃったけぇ、わかっちゃあもらえたがねぇ」そこで、シノさんは声に出してフフフッと笑った。「いっつも大晦日の晩にゃあ、姑さんが寝入ってから、あン人と…亭主様とね、そーっと土間に座り込んでね、一杯だけ、こっそり酒を呑ませてもろうてね。お尻が冷えてくるんじゃが、あン人のいたずらっ子みとぉな顔を見るのが楽しゅうてやれんかった」シノさんは、深く深く溜め息をついた。「大晦日に誰かと一緒にいられるのが私には幸せなんよ」
「え?」
珍しく素直な会話運びのシノさんに、栄子はちょっと驚く。
「十二月三十一日は、あン人の誕生日でねぇ」
「そうなの?」
「命日より誕生日に思い出話をしたいんよ」シノさんは目を閉じた。「ここ何年も話し相手がおらんかったけぇ、一人であン人のことを思い出しとったんじゃけど、なんか、それもさみしゅうてねぇ。今年は聞いてくれる栄子ちゃんがおるけぇ、あン人も幸せじゃろうて」目を閉じたまま、シノさんは小さく何度も頷いている。まるで小娘のように頬を赤らめたりして。いまどきの小娘は頬をあからめたりしないのかもしれないけれど。「私も死んだら、一年に一度でええけぇ、誰かに思い出話をしてもらいたいねぇ」そこでシノさんは目をあけて、栄子を見上げた。「頼めるかい?」
「ええ?」いつも明日や来年と、未来に目をむけているシノさんが自分の死後のことを話題にするなんてどうしたことだろう。栄子は困ったように笑ってみせた。「私がシノさんより長生きしたら、ね」
シノさんは、しばらく栄子を見つめていたが、そっと微笑みを浮かべたまま、敬太のしめ縄に視線を戻した。
「大晦日でも敬太は東京に帰っとらんのでしょ」
「うん、」情報通のシノさんは、中東やウクライナ情勢から、今年の新人賞をとったダンスグループの素性と同様に、最近は敬太について詳しい。ここんとこ敬太がちょくちょくホームに顔をだしては、シノさんと話していくらしいからか。「今日はうちで餅つきしとるはず」
きっと、このことも知っているに違いない。
それ以上に、栄子の知らない敬太情報まで知っている。最近は、シノさんとの間で、照空のことより敬太が話題になることが多いのだが、栄子が教えようとすると、シノさんのほうが良く知っていたりするのだ。
秋に町に遊びにきた東京の友達の中に、やはり、昔の彼女がいたとか。でも、その彼女は農業に従事したくて田舎暮らしをはじめる敬太に愛想つかして別れたとか。敬太は海外青年協力隊に参加するのが夢で、農業に魅力を感じているとか。他にも家庭事情など。敬太の兄が三人目の子供が生まれて東京の郊外に家を建てたとか、姉は大学院で工学を学んでいるとか、両親は教員だったとか。
シノさんの口から新しい敬太情報を耳にするたびに、栄子は複雑な気分になる。
自分が身近に感じている人物の知らなかった姿を、他人から聞かされるのは、なんだか面白くない。それほど敬太を身近な存在だと気にしていなかったが、しょっちゅう家に出入りするようになって、家族のような位置関係におきはじめていただけに。
やだなぁ、私ったら、シノさんに嫉妬しとるんかな。
面白くはないのだけど、なんだか可笑しくなって、栄子は小さく笑った。
「敬太の借りてる一軒家の屋根裏の話、きいた?」こればかりはシノさんも知るまいと栄子は自慢げに話し始めた。「ばたばた音がするけぇ、あがってみてみたら……、」
「ムササビがおったんじゃろ」
「もー、」口をとがらせる。「なんでも知っとるんじゃけぇ」
「九十一年も生きとりゃあ、だいたい察しはつくわいね」シノさんが、いつもの調子に戻ってきた。「あんたが照空より敬太のことを意識し始めとるとかもね」
「普通、そがぁなことって言わんもんでしょ」
「言わにゃあ、あんたぁ、自分でも気がつかんふりして寺に嫁ぐつもりでしょうが」
「……」
「どうね、この際、本音をはきだしてみんさい」
「……」
「敬太のこと、気になってしょうがないんでしょうが」
「……」
ふと、栄子は背後に気配を感じて振り向いた。
「あ」
ロビーの入り口に、ダウンのジャケットをまるまるっと着込んだ敬太が立っていた。反射的にシノさんを振り返る。
シノさんは目に『惜しかったねぇ』とでも言わんばかりの愉快そうな笑みを浮かべている。
く、くっしょー。
栄子は火照ってくる頬を押さえながら(栄子はまだまだ小娘だから、頬を赤らめるのだ。いまどきの小娘ではないにしても。)、再び、敬太に振り返った。
「びっくりするじゃん、いつ来たん?」
いつから、そこに立っとったん?
私たちの話を聞いてとったん?
「今。玄関あいとったけぇ入ってきた」敬太は何事もなかったようにニコリと笑い、ビニール風呂敷に包まれた重箱をテーブルの上にドン!と置いた。
「ついた餅、持ってきたでぇ」そして、車椅子のシノさんの前にしゃがみ込む。「大好きな女性と食べたくてね」ついでに栄子を見上げて。「大晦日なのに仕事の女性を慰問したくてね」
「な、なぁに、」まだドキマギしている動揺を隠しきれず、栄子はどもってしまう。「年越しに餅?蕎麦じゃないんね」
「年越しだけじゃないけぇ、」そう言って敬太は懐から小さなペットボトルを取りだした。「ね、シノさん、」さらにポケットから小さなお猪口を取りだしてシノさんに握らせる。
「お?」シノさんの顔が輝く。
敬太はペットボトルの中身の透明な液体を、シノさんの持つお猪口に注いだ。「誕生日おめでとう、松吉さん」
シノさんはみるみる涙がたまりはじめた目で敬太を見上げ、そして、両手でお猪口を包み込むように持ち、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりとお酒を味わった。お猪口をおろした顔がしわくちゃにゆがんで饒舌に慶びを表現している。
敬太も小さなペットボトルの小さなフタにもちょっとだけ注ぎ、ちょっと乾杯の仕草をしてから、くいっと自分の口に流し込んだ。そして、ニッと笑うと、同じ笑顔を栄子にも向けた。
それまで、手出しも口出しもできずに二人を見守っていた栄子も、そこで初めて息がつける。「もぉ、敬太、」そして、自分でも知らないうちに怒ったような口調になる。「入所者に飲酒をすすめるのは控えていただきたいものね」厳しい規則を口にする。
なんだか、面白くない。
栄子が知らなかったシノさんの旦那さんの名前を、敬太は知っていた。
ちょっと、取り残されたような気になる。
やだ、私ったら、今度は敬太に嫉妬してるのかしら。
敬太が決まり悪そうに肩をもじもじさせるのを見て、栄子は高飛車に付け加えた。
「そーゆー場合は職員も誘わなきゃ」
言うが早いか、敬太の持っていたペットボトルのキャップを取り上げ、催促するように敬太の手の中のペットボトルに視線を落とす。
敬太が安心したように、へへへと笑い、小さなフタに酒を注いだ。
ゴーン。
除夜の鐘が鳴り始める。
その音に、栄子は照空が大きなそろばんで数を数えながら、寺で鐘をついている姿を思い浮かべる。『ときどき、百八つよりよおけぇつく年もあるんで』以前、照空が語ってくれた話を思い出す。『まぁ、わしの煩悩も百八つよりよおけぇあるけぇ』
ゴーン。
よみがえってきた照空の言葉ごと呑みほすように、栄子はペットボトルのフタを空にしたのだった。
【一月 雪の日の別れ】に つづく