連作短編小説「婿さんにいってもいいか」6月

【六月 ゴー、ゴー、江の川】

 カヌーは一度体験したいと思っていたから、この機会を逃す手はなかった。
 岡野さつき、独身。
 名前の通り五月生まれ。この五月で三十五歳になり四捨五入すると四十代の年齢に突入してしまった。だけど、これまでの人生を後悔しているわけではない。
 大学も四年通い(あやうく五年になるところだった)、勢いで友達と事業も起こした。起業した会社は敢えなく倒産したけれど借金が残ったわけではなく、豊富な知識が残った。
 いつも自分の思うままに生きてきて、そうさせてくれた周囲にも感謝している。もちろん、二十歳の頃に戻りたいなと思う時もある。だけど、二十歳から三十五歳までの十五年間に蓄積した経験をゼロに戻すくらいならごめん。私は三十五歳の私で満足しているし、四十歳になっても五十歳になっても、そうあり続けたいと考えている。
 不安にならないではないが、これまでなんとかなってきた人生だから、これからもなんとかなるとタカをくくっている。だから、この町の「農村体験生」に応募してきたのだ。長い一生の一年間くらい田舎暮らしも悪くないんじゃないかって。
 同じ体験生の早川敬太は真剣に農業をしたいと夢見ているみたいだから、私のこんな考え方を気に入らないだろうけれど、それは彼の問題であって私には関係ない。
 一年間で二人だけ受け入れられる農村体験生。今年度は私と早川敬太が選ばれた。何かと二人一組でくくられるが、たまたま同じ一年間を一緒に過ごすことになっただけで、生まれも育ちも年齢すら異なる早川敬太と私とでは全然とらえ方が違う。
 彼はゴールデンウィークに課長の家で田植えをさせてもらったらしい。私は『風の国』でテニスをして温泉に入り、『香木の森』でハーブクラフトを楽しんだ。
 休日の朝起きて「どこに行こう」と悩むことなく、すでに「来ている」農村リゾート。渋滞知らず、ガソリン代かからずで楽しめる温泉、ハーブクラフト、森林浴、美食…。こんな贅沢な暮らしはない。農業に興味はあるけれど、農家になりたいとは思っていない。ましてや、農家の嫁になんて!
 いい年して独身で農村にきたもんだから、周りは「嫁にきたんか?」と好奇の目を寄せてくる。冗談じゃない。農業はしてみたいが、農家の嫁になったのでは課せられるのは農業ではなく農業に従事する家族の世話だ。どうしても結婚したいと焦っているのなら、農村にはこない。都会でサラリーマンと見合いして専業主婦を選ぶ。

 田植え体験は拒否したけれど、カヌー体験は素直に受け入れた。
 いいじゃない、夏はカヌー、冬はスキー。
 都市部に住んでいたら、そうそう身近にできるもんじゃない。
 「日焼けどめ、ぬらなくて大丈夫ですか?」
 役場の農村体験事業担当の三浦照空がサングラス越しに問いかけてきた。
 「大丈夫です」
 日焼けどめをぬってまでアウトドアで遊ぶくらなら、最初っから屋内で読書するのを選ぶ。

 三浦照空は休日をつぶして私たちに同行してくれている。ご苦労なことだ。農村体験事業の一環としてのカヌー体験なのだから、休日出勤かと思ったがそうでもないらしい。いちいち休日の勤務を休日出勤にしていたら代休を消化しきれないそうだ。どこもだろうが、過疎地の地方公務員は大変だ。
 カヌー・ツーリングで川を下るのは、三浦照空と、私と同じ体験生・早川敬太、役場の課長の娘・栄子(どうも照空と付き合っているらしい)と私、それに栄子の弟の信博の五人。信博は高校時代に国体に出場するレベルのカヌー部員だったらしく、今日はインストラクター代わりに加わってくれたとか。うす茶に染めた短い髪が日焼けして金色に抜けている部分もある。眉がキリリと上向きの濃い顔で、ちょっと見た目はタイプ…。
 「今日は休み?」
 敬太は、田植えに行った課長宅で信博と顔見知りになっているらしく、気楽に声をかけていた。
 「酪農に休日はないけぇ」信博が苦笑する。
 「酪農家なの?」その会話の仲間に入ってみる。
 「一応は」信博に真っ直ぐな視線を向けられ、ドキッとしてしまう。ったく、私としたことが。これじゃ、まるで二十歳やそこらの小娘みたいじゃないか。「今はヘルパー。乳牛農家の牧場の手伝いっす」
 「岡野さん、牛の乳ってどう搾るか知ってますか?」敬太が知ったかぶりの笑顔で言った。「アルプスの少女ハイジの世界は過去の遺物ですよ。機械ですよ、機械。俺、先週、信博の手伝いに行ってビックリしちゃった」
 機械で搾乳するのは私だって見たことある…テレビで。
 「敬太、笑わせてくれたよのぉ」信博が思いだし笑いをする。男同士が下の名前で呼び合うのって気持ち悪いって思っていたけれど、ここでは自然だ。ま、同じ名字が何件もあるから下の名前で呼び合うのが間違いないのだけど。「牛舎に入って最初の言葉が『雄はどれですか?』だけぇ」
 …それのどこが可笑しいの?
 「乳牛は乳を出すのが仕事。乳を出すのは雌牛」
 …あ、そっか。
 「それにしても『お父さんは試験管』って答えには笑ったな!」と敬太。
 …試験管?
 「ああ、岡野さん、」信博が説明してくれる。「農協の人工授精士の先生が雄の精子を持ってきて雌牛に注入するんっすよ。それで乳牛は妊娠して子牛を産んで乳を出すんっす」
 …乳牛に生まれなくて良かった。
 「あら?」信博がジッと視線をこらして、私の目を覗きこんだ。な、なに?「岡野さん、コンタクトっすか?」
 「…え、ええ」な、なに、ドキマギしてんだろ、私ったら。
 「はずした方がええですよ。沈したら流されるけぇ」
 「い、いいわ」はずしたら何も見えない。「私、沈しないから」

 初夏の空から降り注ぐ紫外線は強く、日陰も日除けもない川の上で『日焼けどめは必要ない』と豪語したことを、ちょっと後悔しはじめていた。頭上からの太陽光線はまだしも、川面にキラキラ反射されて照り返してくる光が頬を突き刺してくる。
 一度は体験したいと思っていたカヌーも、なんとか沈せずにいるだけで、身体はこわばるし、トイレに行きたくなるし、楽しくもなんともない。ヤマセミもカワセミも他の四人に見えても私には見えない。認識できるのは「ギャオッ」って怪獣っぽい泣き声のカワサギ。しかも、危うく糞を落とされるとこだった。ま、ここは彼らの暮らしている生活の場であって、私たちが闖入者なのだから仕方ないか。
 ただ、生物は見つけられなくても三江線の音は聞こえてきた。道路と平行して走っている線路を見上げる。
 「あ、電車」
 一両編成で小さなバスのような三江線が姿を見せた。
 「汽車だよ。ディーゼルだけぇ」信博がボソッと教えてくれる。
 「…」あ、そ。
 ガタンゴトンと音を残して走り去っていく三江線を見送り…気が付く。
 「すごいゴミ」川から見上げる風景はきれいだって言うけれど、川べりの木にたっくさんのゴミが引っかかっていて見苦しいったらありゃしない。スーパーの白いビニール袋が七夕の短冊のように枝に引っかかっている。「あれは道路を走る車から投げ捨てたの?」
 「水量が増したときに上流から流れてきたのが引っかかってるんっすよ」
 「まさか」川面から十m近く高さがある。そんなに水量が増えるなんて想像できない。
 「川はいろんな姿に変身するけぇ」信博が静かに呟いた。
 「…」あ、そ。

 信博が選んだのは江の川でも瀬の少ない初心者向けのコースで、誰も沈することなく到着点に着いた。なんだか消化不良のまま上陸しよう…としたところで、やってしまった。流れも何もないのにバランスを崩してひっくり返ってしまったのだ。
 あっ!と息をのむ間もなく顔が水中に没していた。
 ぶぶぶぶぶ…がっ!
 自分でも驚く落ち着きぶりで、習った通りに脱出して川面に顔を出す…と、唖然とした顔の四人が見つめ返していた。笑っていいのか、心配すればいいのか決めかねている表情で。
 ぶふっ!
 その顔つきに自分から吹き出してしまった。それを合図にしたように信博が近寄ってきた。
 「だ、大丈夫?」
 「だ、大丈夫!」
 川底に足がつくので立ち上がる。腰から上が水上にでる。ヘルメット、帽子、ライフジャケットに含まれた水がジャーッと流れ落ちる。半分つかったままの下半身がぐちょぐちょしている。だけど、不思議と気持ち悪くない。
 「私、大丈夫!」
 笑い声がお腹の底からわいてきた。ツーリングも終わりになって、ちょこっとだけどカヌーの楽しさを味わえた気がしてきた。こんなにびしょぬれになって遊んでも誰にも怒られない。水にぬれずにすむのが楽しいんじゃない。水に落っこちてびしょぬれになるのが楽しいんだ!
 「大丈夫よ!」
 私のはしゃぎぶりを不思議そうに眉をハの字にして見つめている信博の顔がぼやけて見える。
 なんでだろ?
 あ、コンタクト、落としちゃったんだ…。
 普通なら、ここで悲鳴をあげて探しまくるところだけど、「大丈夫、だいじょーぶ!」ただ、もう可笑しくて笑い声しか出なかった。
 川は愉快な遊び場だ。

 その翌週、邑智郡を豪雨が襲った。
 一晩、降り続いた雨に江の川は水量を増し、アッという間に氾濫した。一夜明けて水はひいた。雲間から太陽が顔を出し何事もなかったような空模様に戻った。だけど、川は黄土色の濁流となり、川辺の道路には流れてきた大木や岩がゴロゴロ転がっていた。水流でこれだけ巨大な重いものを運んでくるんだ。
 信博の言葉が甦った。
 『川はいろんな姿に変身するけぇ』
 川は危険で恐ろしい。それを知っていなければ愉快な遊び場には成り得ない…。さらに川が好きになりそうな初夏だった。

七月 真夏の夜の…】に つづく


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