連作短編小説「婿さんにいってもいいか」2月

【二月 告白】

 「ほいじゃけぇ、あの時の沈は、信博のせいなんよー」
 上機嫌のさつきの声が居間で響いていた。
 「ほいでも、あそこで沈したけぇ、あとでヤマセミをみれたんで」
 アルコールが入って一オクターブ高くなっている信博の声と一緒に。
 「あんたらのカヌーの話は、わしゃ、よぉ、わからん」
 「わしゃ、川舟に乗りよったけぇ、ちぃたぁわかるで」
 同じように上機嫌に彼らにつきあって呑んでいる父親と祖父の声に、栄子は台所で母の後片づけを手伝いながら苦笑いした。
 「お父さんらは、まだ、呑みよるんね?」母も同じように感じたらしい。「いつまでも若いもんと一緒じゃあ思うとるんじゃけぇ」そう言いながら、流し台の下から焼酎の瓶を出す。「あの調子じゃたりんでしょう。持ってったげんさい」邑智郡のお母ちゃんはこれでないと務まらないのだろう。
 今夜、研修生のさつきが夕飯を食べに遊びにきていた。来月、研修期間が終了すると広島に帰ることに決めたらしい。とは言っても邑智郡まで車で一時間の距離。週末毎に遊びに戻ってきそうな雰囲気である。購入したカヌーを江の川に浮かべに。それとも沈めに、か?
 そのカヌーを森脇家で保管してくれないかと持ち込んできて、今は信博のカヤックと一緒に納屋で横になっている。
 「広島で仕事のあてはあるんか?」父が課長の口調で訊いている。
 「まぁ、バイトなら」さつきは軽く答える。「しばらくは、親の家で居候暮らしかな」
 「ほー、」父が頷く。「なら、栄子と一緒じゃのぉ」
 ちょうど焼酎の瓶を持って戻ってきた栄子だが、顔色一つ変えずに言い返した。
 「私は光熱費をいれてますぅ。扶養家族でもないし、町民税も社会保険料も払ってますぅ」
 「それそれ!」さつきが食いついてくる。「去年の収入で今年の税金とられるでしょ? 103万とか106万とか、壁があっちゃこっちゃにあるし!」
 税収入をやりくりして業務と人件費にまわす公務員としては、父は苦笑いするしかない。
 「さつきちゃんの進路は決まったが、」父は話題を変えた。「敬太は、なんか言うてきたかのぉ」
 「いろんな噂は聞きますけどねぇ」さつきが指おり数えながらあげる。「昔の彼女とアメリカに行くとか、南米に移住するとか、東京の学校に入るとか」
 「邑智郡らしい噂じゃのぉ」信博も笑う。「わしも、えっと尋ねられたけど、でも、そんだけ、あいつが、この町で存在感があるゆうことよの、」ちらりと栄子に目をむけて。「の、ねえちゃん?」
 「あん?」いきなりふられて栄子はどぎまぎしてしまう。「そ、そうね」
 「なんだ、栄子、お前、なんか聞いとるんか?」
 「私が?」慌てて否定する。「聞いとらんよ」
 バス停まで送っていった雪の日以来、敬太とは話をしていない。バスは無事に東京に戻ったと家に電話があったらしいが、出たのは母親だった。その後、何度か家には電話はあったらしい。もうしばらく研修を休む旨を父に告げ、友人である信博とも話はしたみたいだけど、栄子とは話せずじまい。
栄子は無意識に、フリースのポケットにいれているスマホを確かめた。
自分と話がしたいなら、家ではなくこのスマホに電話してくるに違いない。でも、ここには一度もかかってこない。最近は幼なじみの小春からのLINEも途切れがちだ。毎晩のようにあれこれ連絡してきていたのに。男でもできたかな。
 「まぁ、パラグアイに行くかどうか決めたら、なんか言うてくるじゃろ」  
 信博が音沙汰のない友人を助けるように言った。
 地図でしかみたことがない国、パラグアイ。
 敬太はそこに行こうとしている。
 一度は必ず戻ってくると約束してくれたが。
 でも、どうして……。
 どうして、あのとき、見送りにいったとき、何も言えなかったんだろう。
 それより、何と言いたかったんだろう、私は。

 泊まっていけという父の誘いを断ったさつきを、栄子が軽トラで研修生住宅まで送ることになった。
 「本当に泊まってってもえかったのに」
 軽トラのライトをハイビームにして走らせながら、栄子は言った。
 「そがぁなことしたら、噂になるけぇ」
 「噂?」
 「そ。『女研修生は課長の家に泊まったが、あそこの長男とできとるんじゃろうか』」
 さつきは近所のオバチャン風の声色でささやく。
 それが可笑しくて栄子は大笑い。
 「確かに!」
 「一度、車に載せてもらっただけで結婚まで噂されちゃうんだもん」
 「ははっ、じゃあ、信博に送らせてみればよかった!」
 「それで噂の広まり具合を調べるん?」
 「面白いかもねぇ」栄子は笑顔で続けた。「信博の彼女が怒鳴り込んでくるかもね」
 「……」何気なく口をつかれた言葉に、さつきは反応してしまう。「信博、彼女おるん?」
 「えー、どうかねぇ。最近、あやしいけど」
 「ふーん」
 「え?」そこで栄子はさつきの反応に気がつく。「まさか?」
 「なに?」
 「さつきさんだったりして、信博の彼女!」
 「ま、まっさか!」わかりやすい狼狽ぶりのさつき。「私は、だって、ほら、えーっと、幾つ年が違うんだろう」とぼけてみせる。幾つ年齢差があるかは、即答で言えるくせに。「で、でも、信博、かっこいいから彼女いるだろうね」
 「かっこいい?」栄子は姉の口調。「あれが?」
 「かっこいいよ」さつきは肯定。「牛の世話してるときも、カヌーするときも、神楽してるときも」
 「ふーん」姉としては弟をほめられて悪い気はしない。「さつきさん、信博のこと、好きでしょ?」
 「……わかる?」さつきは自分でも驚いたことに、素直に頷いてしまった。
 「やっぱねぇ」
 「でも、彼女がおるんなら仕方ない。三十路のおばちゃんは身をひきましょ」今度は笑ってごまかす。そうやって、これまで剛いふりして生きてきたのだ。
 「おるかどうか確かめとくよ」
 「……栄子ちゃんは役場の三浦照空さんと結婚するんでしょ?」
 「う」今度は栄子が口ごもる。「さつきさん、正直に告白してくれたから、私も言うわ。まだ誰にも言ってないけれど、」
 「日取り決めたの?」
 「ううん、」栄子は決心をかためたように告げた。「別れようと思ってるの」
 「ほ、ほんま?」さつきはビックリ。「な、なんで?」
 照空に別れ話を切り出しても、彼は、ここまで動揺しないだろう。『なんで?』とすら訊かないかもしれない。黙って別れてくれるだろう。黙って付き合ってきたのと同じように。

 研修生住宅でさつきを降ろし、家に戻ってきた栄子は、勢いよく軽トラを玄関前に止めた。寒空にくっきりと浮かび上がったオリオン座のように爽快な気分。
 夜のドライブで、お互いの心中を告白して、まるで高校生の修学旅行みたいだと、さつきと大笑いした後だけに。初対面のときは『近寄りがたい存在』としか思えなかったさつきなのに、今夜、それぞれ誰にも話していない秘密を打ち明けあうとは。きっと、そういう間柄だからころ、お互い、話せたのかもしれない。
 「ただいまー」
 玄関から、そのまま自分の部屋へ上がる。
 パチリ。
 部屋の灯りをつけたと同時に、フリースの中でスマホが振るえた。
 敬太?
 期待をこめて液晶画面を見る。
 「……小春かぁ」自分でも可笑しくなるくらいの落胆ぶりに苦笑しながら、栄子は幼なじみから届いたLINEを声に出して読んだ。
 「『ちょっと話があるんだけど、驚かずにきいてくれる?』なんだっての?」
 「ねえちゃん、」今度は部屋の外で信博の声がした。「ちょっと、ええ?」
 「なに?」親指でスマホに返事をうちながら、弟にも答えた。
 「ちょっと話があるんだけど」信博が部屋に入ってくる。「驚かずにきいてくれる?」
 「なによ、二人そろって……」栄子はスマホから弟に顔をあげた。そして、その顔をみて、なにか直感めいたものを感じた。「二人そろって?」
 「親父たちに言う前に、ねえちゃんに報告しとこうと思ってさ」信博は栄子のスマホに目をおろした。「俺、」栄子は弟が自分のことを俺と呼ぶのをはじめて耳にした。「小春と結婚しようと思うんだ」
 手のひらのスマホが小春からのLINEを読み込んでいる。
 『そーゆーことなの。えへ』
 「そ、そーゆーことって、あんたたち……」栄子は言葉を失ってしまう。「いったい、いつから?」哀れ、同士さつき、あえなく玉砕。
 「いつって、意識しはじめたのは最近だけどさ、俺たち、真剣だから」
 「ふざけてたら承知しないわよ、ったく」栄子は姉の威厳を取り戻す。「父さんや、小春の両親には?」
 「これから、ちゃんと話すよ」信博は続けた。「ねえちゃん、照空の嫁にはならないんだろ」
 「なんで?」栄子は眉をしかめる。「それとこれとは話が違うでしょ」
 「違わないよ」いつの間に弟は大人になったのだろう。「小春、一人娘だろ。それで、俺、小春の家に婿養子にはいるつもりなんだ。この家のことは、ねえちゃんにまかせていいかな」
 「それが気がかりなの?」心配そうな顔をしている弟をみて、栄子は小姑として親友をいじってしまう自分を想像してしまった。「大丈夫よ」笑いを 浮かべてしまう。「家も父さんも母さんも祖父ちゃんも畑も田んぼも、まかせんさい」
 父も母も祖父も、ひょっとしたら畑も田んぼも、まだまだお前にはまかせられんと笑うだろうけれど。でも、これでも町民税も社会保険料もちゃんと支払ってる町民なんだから。
 そこで再びスマホがふるえた。
 でも、それは小春でもなく、ましてや敬太でもなく、勤務先の老人福祉施設から、ヨシノの心肺が停止したという知らせを告げるものだった。

三月 婿さんにいってもええか】に つづく

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