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忘れていた・感覚

 暖房の効いた部屋の外は幹線道路で、交通量は普通なのだが、今朝は静かで助かった。宏樹がまだすやすやと寝息を立てているから、私はそっとベッドから抜け出して布団の端をそっと、丁寧に宏樹に寄せる。

 久しぶりのデートの後にいつものお泊りだったけれど、少し不思議な感じがしてなかなか眠れなかった。

 出張型の男性風俗の男性として出会ったけれども、いつからかな? 三回目からは店を通さずに現金を渡すようになり、lineで連絡を取るようになった。本当にこんな年増の叔母さんと金銭を介在して深い関係になる男がいるとは思わなかった。小説や映画の中だけの話だと思っていたから本当に不思議だった。

 ワンルームの賃貸だけれども間仕切りを入れると寝室とキッチンを遮断することができる。このマンションの家賃は7万円で管理費などを入れると9万円ほどになる。契約をして一年が過ぎた、以前はコロナ対策で娘や夫が濃厚接触者になった時や、会食、出張の時に隔離する名目でボロマンションを借りていた。

 私はいつも掃除をする係りであったが、二年縛りの契約が終わって前のマンションを契約解除してこのマンションへと切り替えた。地下鉄の駅には近いし、周りにコンビニやDS、病院などがあり便利だが家賃が高かった。

 夫は仕事以外に娘にも私にも興味を示さない人だったけれども、お金だけはあった。最愛の人は歩くATM になった。

 このマンションは田舎からの脱出と喘息発作が持病になった私が一人で通院したり、娘が仕事の帰りが遅い時に寝泊りするためのマンションとなった。しかし、それも毎日ではないので、空いている時は私が若い男性とこうして夜を過ごすために、使っている。

 宏樹との出会いはほんの出来心からだった。

 興味本位だけでは済まない何か、人生最後に女として生きたいと思える時間が欲しかっただけのこと。求めてもいいのかなと思える男性にもう一度抱かれたいと思った気持ちが暴走しただけのことだった。

 普通の人(何をもって 普通というのか)は歳の離れた男性と夜を裸で過ごすことなど考えられないのかもしれない。けれど私は48歳でずっとレスだった。男性の肌の温かさを知らなくて、もう 忘れてしまっていた。子供から手が離れて自分を見つめるとともに、迷わず男性の温もりを求めた。

 初めての時は、何もせずにデートをして食事だけで別れた。彼の横顔ばかり見て、脈や心臓の鼓動が高くなり聞こえやしないかと私は焦っていた。話す時に鼻梁に少し皺が入るほどに笑う彼の顔が好きになった。心通うまで話したいと思うのはわがままだろうか……。

 しかし、二回目は宏樹の方からホテルへと誘われた。自分の年齢は3歳若くサバを読んだ。けれどあっさりとそして簡単に私は宏樹に抱き着いていた。焦りすぎだと笑われてもいいとさえ思った。でも、男の匂いを胸いっぱいに嗅いだ。30歳過ぎの若い男性の杉の葉っぱのような匂いにドキドキした。

 今はその香りがする布団の中で朝を迎える。

 いつまで、この幸せが続くだろうか。

 失うことが恐ろしく怖い、手に入れると今度は喪失するときの痛みを想像して胸が苦しくなる。まるで初めて好きになった人を失った時のようなあの時の痛みを再び感じるのだろうかと思うとぞっとする。

「奈波、どこなの?」

 宏樹の声が私を呼んでいる。返事をすることも躊躇われる。しかし、私はその代わりにそっと布団の中に潜り込むことにした、まるで猫のように。

             了

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