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風よ あらしよ   読了・感想

 どうしてこんなにも不運なのだろう、この人はと思った。最後にページを閉じた時の私は大きくため息をついた。きっと生まれてくる時代を間違えたのだろうと思う、そう思わせて欲しい、それがせめてもの伊藤野枝さんへの私の気持ちだ。

 このあと野枝さんと呼ばせて頂くが、女性ではなくて男性に生まれていたらどうなっていただろうか。やはり、政治的活動で頭角を現して忙殺されてしまう運命なのだろうか。いや違う、日本の中枢で政治家となる事も可能だったかも知れないなとも思った。

 無限の可能性を持って人はこの世に生まれてくる。だが、その親ガチャという言葉が最近若者の間で流行しているらしいが、ガチャガチャのごとく、出てくる景品を誰しも選べないという意味をそれ以外の事象にも当てはめてそう言うのである。

 転び出た自分の家庭環境をガチャガチャに例えるのだ。あまり優れた比喩ではないけれど、ある意味これを引用すると、野枝さんはハズレである。かくいう私自身も残念ながらハズレであったし、私の父もハズレだったようだ。だからなんだ、何が言いたいのかと尋ねられるでしょう。もしも野枝さんが三島由紀夫の作品の中に出てくる貴族の家庭に生まれていたら? どういう人生を送っていただろうか。太宰治の妻になっていたらどうだろうか? 



 もしも私があの両親の元に生まれていなかったら。野枝さんが九州の没落した子だくさんの家庭に生まれていなかったら。

 もしも……。

 周りを見てよその芝生は蒼いのはいつの時代も同じだが、野枝さんはそんなことを微塵も恥じてはいない。私なんかとは人間のスケールが違うのだ。自分が置かれた場所で甘んじることなどはない。勉強して東京へ行くんだと思う幼少時代に見た九州の蒼い海の中から、高い理想を目指した。

 だが若い女性の地位は低く、二十歳前の若さですでに嫁入り先が彼女の知らないところで画策されているのだ。絶望と乾きはどんな気持ちだったことか、本文の中では紙を持つ私の手が汗ばんでしまうほどの怒りを感じた。

 その時に在学中の高等女学校の教師、辻に抱く淡い恋心だけが本文の中の救いであり、一筋の光明なのである。苦労して勉学に励み、その才能もある野枝さんが顔も見たことのない男性の妻になるために勉学に励んだ訳ではない。それに伴い、辻は十歳も年若い女学生に惹かれて行く。そのくだりのなんと切ないことか、村山先生の筆の運びはとんでもなく読者を巻き込んでいく。魂の呼び合うことに時間やプロセスは必要としない。

 女学校には当然女子ばかりで、中には良家の子女や美人もいただろう。だが辻が野枝さんにぐいぐいと惹かれるには運命というある意味強い定めがそこにある。残酷ながらも、野枝さんのはじめの男は辻でない。さだめに従い、嫁にイヤイヤ行った先の旦那との関係を彼女の中では汚点のように書かれている。実際そうに違いない、だが、そこで、辻ではなく旦那を愛する事ができれば、野枝さんが賢く聡明でなければ、28歳という若さで命を奪われる事などなかったのではないだろうかと私は思う。

 私が甘んじて、今こうしてPCに向かっている。暖かい部屋で、衣食住に困らないのはなぜか。野枝さんに自分を重ねるのはおこがましいことだが、あのとき、自由を手に入れるためにこの家を捨てて、子供を置いて家を出たら。時代が違う。あの頃そんなことは容易ではないし、野垂れ死にをしてしまうだろう。商売女になってしまうという選択肢も野枝さんにはない。

 常に心に男が住んでいる。だが自由を求める。

 それは淫乱な気持ちではなく、野枝さんは自分を縛らず、同じく前を向ける男性を求めた。自由恋愛という形をはじめから好んだ訳ではない。自然とそういう形になってしまうのが恋愛体質なのだろうか。魅力的な知性を持った男性が次々と登場する反面、平塚雷鳥など、女性活動家や文筆家も多く登場するが、そこに筆を裂かれる部分には私は感情が揺れなかった。

 野枝が辻との蜜月の結果、極貧の中でも二人の子供を授かった。教師と生徒の関係はその時代も今の時代もタブーであることは変わらない。辻はクビになる前に自分から退職するが定職を探すつもりはない。ここでも夫ガチャに失敗するのである。もしもこの辻が文学かぶれで崇高な精神の持ち主でなければ、この女を幸せにすることだけに集中できるある意味前向きな男性だったとすれば、野枝が辻を捨てただろうか。嫌いになっただろうか。

私は本文の中に向かって、「おい、もっと必死になれ。しっかりしろ」と叫んだ。野枝の気持ちはどんどん冷めてゆく。男女の愛とは形のないものなのでいつかは覚める。いつまでもただ一人の人を愛し続けることは苦行に近い。

 私も変わったし、野枝さんも変わっていく。一人の男を愛し、痛めつけられ、摩耗する愛。崩したのは女? それとも男が壊すの? 私は胸が締め付けられる思いだった。産まれたばかりの幼子を背に、上の子はおいて家を出る野枝さんの気持ちの中には、二番目の男、大杉栄が住んでいた。実際に私は辻さん・大杉さんにお会いしていないのでどんなにすごい吸引力を持っているのかは分からない。おそらく若さゆえのことではないだろう。とんでもない魅力が、彼らにあったはずだ。

 けれど、野枝さんは見た目なんかよりも中身がとても重要なのだと思う。自分を認めてくれる人に惹かれる、そして自由にさせてくれる男が。自由恋愛という旗のもとに複数の女性と付き合う男。アナキストで公安からのマークが絶えずにいるような安全でない男のどこがいいと私は思う。だが、辻の嫌な面ばかりが積載されて、野枝さんの神経が摩耗する中での出会いはある意味ずるい。同じ思想とは強い、同士という絆は最も惹かれる引力の一つであるのは今の世の中では異形に写るがあの時代は普通の人とは違うのだからしょうがない。

 大杉にとっても、野枝さんにとっても渡に舟だと思う。

 そこが恋愛の、男と女の気持ちの動く様が文面から浮き上がってくるのである。からだが求めるのか、それとも魂が求めるのか、自分の子供を置いて出るほどの男臭さがもう辻には残っておらず、野枝さんが自由を求めただけと私には思えなかった。自分を常識人だと言いたい訳ではない。だがそこまでの熱量が私にはなかった。はじめての男としての辻への気持ちは失せて色あせ、嫉妬深くて、怠惰で自分に枷をかける束縛男に野枝さんはうんざりしていたのである。

 辻との間に二人、大杉との間に四人の子供を授かる。ほぼ一年空いているか、数年おきに出産しているのではない。できたら産むということを繰り返していた。自ら結婚して離婚した事があるのに敢えて自由母権の方へという、ウーマンリブの走りであった。子供を愛し、何よりも女性の魂を解放する運動に身を捧げた野枝さんの人生は三十歳になることを許さなかったし、産まれて一ヶ月あまりのネストルは母の顔を覚えることもできずに、この世を去ることになる。

 大杉がフランスへ渡るも、8ヶ月離れている間に彼への思いが募り、身を絞られるように辛かったあとの男児の出産だった。食べるにも困るような生活の中で海外へ渡航するほどの大物は国家にとっても、公安警察にとっても邪魔でしょうがない存在だった良人の大杉との別れを想像するだけでも気が遠くなるほどの愛を捧げた野枝さんはある意味幸せだったのかも知れない。

 浪費されるだけの愛はいらない。死ぬなら一緒に。

 素晴らしい言葉ではないか。これでもう失わなくていい。あの人がそばにいると、死ぬ間際に思えたことだけが、せめてもの救いだった。そこで子供のこと、両親への思いではなく。良人の大杉と自分の二人はもう誰にも引き離されないのだ。永遠に……。



 捕縛されたその日に夫婦は惨殺されて、たまたま同伴していた甥の子供も犠牲になった甘粕事件で大杉と野枝さんは短い人生を閉じたのは関東大震災から二週間後のこと。

 どさくさに紛れて忙殺する計画が偶発的に行われたのか、それとも遅かれ早かれ二人は裁かれる事になったのかはもう霧の中だ。残虐な蛮行により幼い子供も含めて、非情に命を奪われた。大杉と野枝さんの幼子、野枝さんと前夫との間の子供から、父と母を奪う行為はどう考えても理不尽だ。

 慎ましく、貧しいながらも平穏な日々の中で愛を育んでいれば子供達の成長も見ることができただろうに。私は残念でならない。その才能も何もかも今なら、言論の自由として求められていたのに、生まれてくる時代を間違えただけなのだ。

 もっと普通に生きられなかったの? と本と目を閉じて私はまたため息をつく。野枝さんは私に言う。

「ねえ、普通ってなに? それって面白い?」


                      了

(#読書の秋2020   #風よ  あらしよ)

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