天の雫
手のひらで蒼いだるまは口を結んでいる。
少しユーモラスな表情の素焼きの人形を吉沢杏奈は何度か、叩きつけて怖そうかと考えた。地面に叩きつける、もしくは川に流してしまうとか。そのあと、そのあとのことは安易に想像がつく。思い切り泣いてしまうことで、終わりが来るならそれでいい。だが、おそらく酷く後悔するだろう。
松川だるまは普通のだるまのように赤ばかりではない。空に抜けるような色を纏っていた。仙台の名産品として昔はお土産として有名だった。
一心不乱にその白いだるまに筆を走らせていた男の横顔が杏奈の頭に蘇る。雫井晃司、その男は眼鏡の縁を押し上げて俯いたまま筆を握っていた。眼鏡の奥のおとなしそうな眼差しとは違い、仕事となると全く別の顔を持つ。絵の先に込める力がこちらにも伝わりそうだった。
小さい焔のようなじれったい気持ちが蘇る。
杏奈はだるまが壊れそうなほどに強く握りしめる。
あの時のあの人のことで頭がいっぱいだ。
もう新幹線は仙台駅に到着していた。でも杏奈の気持ちがざわついて今までの晃司のことが思い出されて、お尻があがらない。乗客はもうみんな降りてしまい誰もない。バッグを持つ、立ち上がるんだと言い聞かせても気持ちがぐらついて立ち上がれない。
このまま、帰ろうか、京都へ。
(あの人は定禅寺通り、欅の木の下で待っている)
杏奈に短く告げた。
会いたいからここまで来たのに、いざこの地に降りたらどうなってしまうのだろうかと。自分の伝えたい思い、置かれた状況が杏奈の心をかき乱す。うまく伝わるだろうか、あの人はそれをわかってくれるだろうか。もう会えない、これが最後なのと、言えるだろうか。こんなにも愛しているのに、なぜ別れないといけないのだろう。
しかし、このままではただの迷子。
杏奈は誰もいなくなり、清掃係や車掌の不審な顔を尻目に車内から出ると、バッグをひっさげて改札へと向かう。
「行かないと、でも、何がかわるというの? ただお互いに傷つけ合うだけ」
晃司が仙台へ戻り5日が過ぎて、電話でのやりとりだけの時間はとても狂おしいものだった。彼の体温を求めている自分を押し殺して過ごす毎日はただただ苦痛なだけだった。
晃司は父親の病状が悪化したことと、家業の小さな店をどうして維持するかなどを整理するために、人形の修行に来ていた京都を急遽あとにした。晃司が京都に戻ることはおそらくないと思う。
「杏奈が来るまで、待っている。時間が許す限り」
杏奈はそのことばに返事ができなかった。自分にも困難な現実があり、全てを捨てて京都から仙台へと行くことなど到底できなかったからだ。晃司の言葉が胸に突き刺さったまま、杏奈はとにかく会って話をしないと終わらないと思っていた。
甘い言葉や、誘い文句から始まった出会いではない。
ただ、仕事のために訪れた人形展に晃司がいただけのことで、印象は最悪だった。しかし、それはほんの一時のことだけで、何か言い様のない気持ちがあとから押し寄せて、胸に湧き上がる好きだという感情を抑えることができなくなった。だから、自分の負けなのだと杏奈は思う。この人は、好きになってはいけない人、仙台へ戻る人だとわかっていた。
人形師として仙台から修行二来ているのだから、故郷へと戻る日はきっと来る。杏奈には母がいて、一人のこして仙台へと行くことはできない。昭和じゃないんだから、今ではそんなこと考えられないだろう。人は鼻で笑うかもしれない。でも、杏奈には母を置いて京都を出ることなどできないのだ。
あのきれいな細くて長い指が私をだめにする、私の髪を撫でるときの感覚がどんなに幸せな気持ちにさせてくれるか。それは私にしかわからない。杏奈はそう思う。一目惚れなどしたこと、なかったなと。
新幹線の車内は冷房がよく効いていて体が冷えていた。
だが、いったん外へ出ると、暑くて汗がにじんでくる。ここへ来る前に京都の病院へ行き、杏奈は母の鈴子の顔を見てから新幹線に乗った。しかし、そこでも母に見抜かれて喧嘩になってしまった。
「あんた、そんな人、たいした稼ぎもないのに、年も離れていて、不幸になるだけやわ。苦労するに決まってる。それでもええの?」
「お母さんは晃司さんの何を知ってるの? 私はそれでも行くから。話だけしたら、すぐに戻るし、行かせて」
肺がんで余命宣告されている母の腕は更に細くなる一方で、その折れそうな腕を直視することができなかった。
「仙台のお店の跡取り、わかってることやん。もう、京都に戻らない人」
目を赤くして瞬きもせずに射貫くように自分をみることが辛い。
「わかってる、でも、これが最後になると思う。自分の気持ちにけじめをつけないと。行かせて、すぐに帰るから」
杏奈は今まで、母の言うとおりに生きてきた。わがままを言ったことなどない。背中を向けて病室を出た。
杏奈には杉山悠介という中高生時代の同級生の友人がいた。悠介は杏奈の少しひねくれた、それでいて奔放な明るさが好きだった。しかし、杏奈が仕事で知り合った人形作家の年上の男のはなしを、顔色も変えずに見ていることが務めだと思っていた。
悠介が自分のことを友人以上に案じてくれていることも十分にわかっていた。だが、晃司という人に出会ってからは杏奈の中に眠っていた、愛するとはどういうことなのかが、イヤになるほど膨らむことをとめることはできなかった。
こんなにも心がざわつくなんて。
こんなにも会いたくなるなんて、思いもしなかった。
気が付けば、あの、少し寂し気な横顔を思い出している。
過去に付き合った男性はいたが、どの人もそんなに長くは続くことはなかった。はじめは知らないもの同士の二人だったのに、こんなにも強く惹かれるなんて、それもわずか二ヶ月足らずで、その人が故郷へと帰ってしまうなんて。
自分でも呆れるほどに杏奈は晃司という男性に強く惹きつけられた。
今、晃司がどんな思いでいるのだろうか、自分と同じように会いたいと思ってくれているだろうか。そう信じていたいのは自分だけではないかと、焦る。
あの時。
お互いの持つ孤独な魂が共鳴した。
杏奈の慟哭を受け止めた人、それが晃司だった。出会って間もないのに……。杏奈は母親の余命宣告を受けた後で、晃司を呼び出した。杏奈の折れそうな、壊れそうな心を晃司が大きな手で包み込んでくれた。近いうちに母がこの世からいなくなる、その気持ちを全力で支えてくれた。
なのに、今、杏奈のそばに晃司はいない。
晃司を選べば、母との時間が少なくなる、どうしたらいいのか、わからずにいた。
杏奈と晃司の出会いは杏奈が市役所の広報課の職員として五条坂陶器市取材記事を書くために、伏見人形の「よしゆき」という店に行ったときだった。毎年恒例の暑い時期にある陶器市のピックアップ記事をどこにしようかと、探していて、たまたま他の職員と検討した結果、杏奈がこの店に赴いて写真を撮影したりと取材に行くことになった。
杏奈が店主と電話でアポを取っていた日に店を訪れた。
工房に入ると、店の少し奥、でも見える場所で仕事をしている男性がいた。筆を持ち絵付けでもしているのだろうか。声をかけて店に入ったが返事はないし、そっと入ったら広くはない店と工房が一緒になった古民家の中に広がる空間だった。
「あの、お仕事中にすみません。市役所の広報課から参りました。吉沢と申します。ご主人さまですか?」
名刺を出して身分証明を見せたが、その人はこちらを見ようとしなかった。
「いいえ」
不機嫌そうな声に、作業している姿のまま、こちらを見ることもない。
「あの、お約束してきたのですが。ご主人はどちらでしょうか? お忙しいならば、先に写真をとってもいいでしょうか?」
「好きなように」
杏奈は人形の陳列されているものから、カメラで写真を撮り、タブレットでも写真を撮った。
不機嫌な職人は真っ白な伏見人形に埋もれた状態で、そこにあぐらで座ったままだ。数個ほどの人形が、白木の長い盆の上に並んでいた。それらはかわいらしいウサギで、神社のおみくじだろうか、それともお土産やカフェのグッズかと思って見ていた。あまりの愛らしい。この愛想のない人が作ったもののように思えない。この手から真っ白なものが、白いウサギとなるのだから……。
「写真撮ってもいいですか、このウサギも」
「あ、どうぞ」
杏奈が尋ねると、それを契機に立ち上がり店の暖簾をくぐって奥へと消えてしまった。まるで、杏奈が邪魔であるかのように……。
あまりの感じの悪さに杏奈は、仕事だと言い聞かせていたが、あまりにも居心地が悪くてスマホを出して写真だけで帰ってもいいか、係長に聞こうとしていた。ちょうどそのときに店の玄関から作務衣を着た白髪の初老の男性が同じ年齢と覚しき女性とともに、入ってきた。
「ああ、すんまへん。役所の人ですか。晃司はんから電話がありまして、少しのつもりが、長話になって」
「あ、そうでしたか」
「店はこんなに狭いですが、何か記事になりそうですか?」
「はい、写真は何枚か撮らせて頂きました」
「あの人、無口で無愛想ですやろ。晃司さんは預かりの職人さんで京都のひとと違うから、少し緊張していたのかも知れません」
「はあ」
店の奥から先ほどの老婦人に連れられて先ほどの男性が出てきた。
「仙台から、京都の人形の絵付けの仕事を学びにきています。雫井です」
「はい……」
杏奈は先ほどまでの感情を胸に押し込めて、つくり笑顔で前を向いた。
これは仕事、いつものことだ、と。
「悪い子ちゃうのよ、少し無口なだけ。京都に来てまだ、日も浅いからね、ごめんなさい。おねえさん」
老婦人は店の女将さんだったようだが、懸命に彼をかばおうとしているのがよくわかった。そのあと、奥さんはまた、忙しそうにできあがった人形を持って立ち上がり、
「お父さんは、取材とか得意じゃないし。私では良くわからんから、難しいこと。この人、若いから話を聞いてみてね」
「え?」
そう言うと奥さんはいなくなり、杏奈はその背が高い痩せた男性と二人になってしまった。
京都は清水焼の里で名産品として有名であることから、毎年八月七日頃に四日間ほど五条坂陶器祭りと銘打って道路に出店が出現するのである。全国から色々窯元が猛暑のなか、汗だくになりながら地元から持ち込んだ陶器を売るのである。そこで夕立でもあれば、観光客や地元の人たちは逃げ惑うことになる。それもまたご愛敬なのだ。祭りという名前は冠しているけれども、早い話が陶器の即売会で良いものを少しでも安く手に入れようと、目利きの人から、新しい器を探しに来る人でごった返す。
杏奈が今年の市民新聞にこの記事を選んだのは、初めてでも、ほぼ毎年この記事は掲載されている。ただ、今回は吉行陶工という、老夫婦の営む、小さな人形の店を選んだ。
電話で大まかに話を聞いてはいるが、先ほどの店主で四代目だそうだが、子供がいないので、自分たちでこの店は終わりにしようかという話をしていた。雫井という人は表情を変えずに、これと同じようなことを話していた。
杏奈は陳列棚を指さして雫井に言った。
「かわいいですね。お顔がみんなふっくらしています。京都の人形と言えば瓜実顔に、つり目のひな人形が主流ですが」
「そうです、だが、この素焼きの人形は御所人形似しても美人太夫にしてもわざとふっくらしている。それが伏見人形の良さなのです。僕は仙台の堤人形という、同じく名産品の店の関係者ですが、同じならばと、こちらのお店で少しの時間だけ修行させてもらいに来ています」
「あ、仙台の方ですか」
「はい、産まれも育ちも。実家が人形店をしています」
「そうなんですね」
杏奈は先ほどまでのこの人の堅さは仕事に打ち込む姿なのだと改めて思った。
「去年の秋の終わりに、きました」
「もう直ぐ一年になりますね。京都はどうですか」
「一向になじめません、こんな性格だから知り合いも友人もいなくて」
「あ、そうなんだ。東京の大学や北海道なんかへも行った子が同級生似いましたが、結構楽しそうでしたね。私は京都からでていませんが」
「僕は、陰気くさいというか。内向的な性格なんだ、一人っ子で親の年齢が高い時の子供なんで……」
「それは、あまり関係な、かな」
ぽそっと、杏奈が返事をしたので、それを契機にその人は先ほどの作業に戻り、またあぐらをかいて絵筆を手に取った。
なんとなく杏奈は思う。まるで、散歩の途中で迷子になって飼い主を探している子犬みたいに思えた。どことなく寂しそうな横顔は、話したとおりに人を寄せ付けない何かがあるのかとも思える。杏奈はこの人をこのままにしておけない気がして、衝動的に、
「このあと、お互いの仕事が終わったら一緒にここから近いラーメン屋さんに行きませんか? 良かったらですが。無理にとは言いません」
腐れ縁の杉山君ともよく行く、藤吉という店を杏奈はイメージしていた。
薄味だが九条ネギがたくさん入って、とてもシンプルな味付けで値段も安い。仙台の人には合わないだろうか? 杏奈は仕事の道具をバッグにしまうとまっすぐにその人を見た。
「え?」
「イヤならいいんです。ただ、なんとなく。友人ともよく行く店なんです。その子も男ですがね」
「このちかく、知らないなあ。でも、同情、ですか」
「いいぇ、ここから近いし。私、お昼を食べ損ねて。このまま直帰してもいいかなと思い始めて。本当は役所なんで帰らないと、だめなんです。でも、もう五時じゃないですか」
「行きたいな。麺類は好きなので」
始めてその人は杏奈の顔をちゃんと見て笑った。笑うと眦の横に何本か皺ができる。杏奈はなにか、はじめの印象と全く違うその人に心がざわついた。年上の男性に惹かれる傾向のある杏奈……。
(あ、この人、こんなに優しい目をしているんだ。なんだろう、このギャップ、とてつもない温かい感じがする)
杏奈は慌てた。
先ほどまでの、あの愛想もないいやな感じはどこかへ飛んでいった。
まるで昔の友達に再会したような懐かしさのする笑顔だった。
きっと、この人は今までこの店の老夫婦としか話しもせずに、本当に知り合いもなく人形とだけ向かいっていたのかもしれない。
あんなにはお互いに彼氏や彼女がいても、普通に付き合える幼なじみの杉山君がいた。女の子の友達は結婚したり、同棲したりと付き合いが希薄になってきた。東京へ行ったきり、連絡が取れなくなった子もいれば、北海道大学を卒業してJICAに就職して世界を渡り歩く優美とは連絡を取るが、なかなか会えない。
杏奈は自分の名刺の裏に携帯の番号を書くとその男性に渡した。
「あとで、電話ください。やっぱり役所へ戻り、このお店の画像や掲載する文章を書いてしまいます。気が変わったらイヤだと行ってもいいですよ」
「いや、何時なら電話しても……」
「六時過ぎなら、大丈夫です」
杏奈は自分のスクーターで来ていたので、市役所まではすぐに帰れる。
短い記事と写真のレイアウトなど、いつもの作業だからすぐにできる自信があった。明日はまた、別のキッチンカーの店の取材へ行くはずだった。
六月の終わり、太陽は沈みきらず、蒸し暑さが酷い。
杉山悠介には、スクーターに乗る前に携帯からLINEを送った。
(藤吉に来られる? 取材で知り合った男性も一緒になるかも。無理ならいいよ)
すぐに既読はつかないし、返事がなくても大丈夫、そんな間柄だった。
杏奈は急いで区役所に戻るとデスクのPCを開いて、先ほどの画像を転送して、すぐに記事を猛然と書き始めた。こんなに一生懸命になるのは久しぶりだ。六時という時間がこれほど気になるのは何年ぶりだろうか?
五条通りから、少し外れた細い路地に昔からある、ラーメン店・藤吉はひっそりとある。雫井から杏奈の携帯電話に連絡があり、場所はグーグルの地図をGメールで転送した。きっと迷うことはないだろうと杏奈は店内には行った。カウンター席は三人ほどの客がいた。
杏奈が四人がけの席に座ると、数分して雫井が店に入ってきた。
雫井は躊躇いながらも、杏奈の顔を確認すると向かいの席に座った。
「先ほどはどうも」
「こちらこそ、お仕事場にお邪魔しました」
「いや、無愛想で、失礼」
「あ、自分でわかっているんですね」
杏奈が笑いながら言うと、
「親父さんに、いつも注意されれいるから」
「直そうと思わない?」
「直せないんで」
「そっか、じゃあ、しょうがないね。ところでこのお店、すぐにわかりましたか?」
「なんとなく、少し前から知っていたけれど、一人では入りにくくて」
「え? でも王将やマックなんかは一人で入るでしょう?」
「まあ、そうなんだけど。どれも邪魔くさいから、コンビニのお弁当のほうが、いいかなと。外食はあまり好きじゃないし」
雫井は先ほど取材先の吉行人形店にいた男性と違い、別の人かと思った。
それほど、私服で見るとさっぱりとした素敵な男性だったからだ。身長が高くて、細い顔に涼しい目は京都の人にはない顔立ち。関東の男性だなと言う感じがする。でも、杏奈は仕事の時に感じた嫌悪感など、どこかへ行ってしまい、別の人が目の前に座っている気がしてならない、そう、思っていた。
人形の吉行にいたときとは、別の人がいる。
杏奈は自分の気持ちが、恐ろしい勢いでもって行かれていくことに気が付いていた。時折、杏奈のほうをみては、はにかんだような表情を浮かべて、お冷やに口を付ける。杏奈は自分がそのお冷やになりたいとふと思った。
「こういうお店はきっとおいしいのだろうけれど、並んで入る気がしない。元々、グルメでもないし、食通を名乗るほどお金持ちでもないからね」
「へえ、そうなんですか。私も一人なら並んでまで飲食店には入らないかな」
「最近のコンビニの食べ物は結構おいしくできていて、下宿で気楽な服を着て、ビールなんか飲みながらテレビを見ているほうが、いいんだ」
「そうですね、そのまま寝てしまおうが、誰も文句は言わないし」
「うん、そんな毎日、それが一番平和……」
(家族はいないのかな)
杏奈はその痩せた顔ににじむ悲哀を見る。
「お、待たせたかな? ごめんね」
杉山悠介が杏奈を見つけて、隣に座った。
杏奈と悠介は中学・高校と同級生で自宅も近くて今も、友人として付き合いがある。悠介は東京の大学を卒業したあと、一年間、大手の生花店で仕事をして、実家の生花店で働いている。いずれはおしゃれな花屋にするんだと悠介は粋がっていた。悠介が店を継げば、三代目になる。
三人が揃ったところで、ようやく杏奈はおなかを満たすことができる。
悠介がライスと餃子、ビールを注文すると、
「あ、学生さんじゃないんですね」
雫井は悠介に言った。
「童顔なんで、よく、そう言われます」
「雫井さんは、おいくつですか?」
「三十二歳、おじさん、ですね」
「いや、そんなことないです。誰でも歳は毎年増えるから」
悠介はそう言うと杏奈の顔を見た。
「ですよ」
「仙台で薬品関係のサラリーマンをしていましたが、親父が病気で倒れてしまい、急に家業の堤人形の店を継ぐことになり、京都で修行をしてこいと言われた、まあ、そんなわけで……」
「大変そう、お父様はいま、お加減はどうなんですか?」
「心臓の手術をしたから、力仕事はできなくて。窯入れはできない。なので、今は在庫を売るだけ、母がね。まだ入院してリハビリをしている感じ」
注文したラーメンができて、三人で食べる。
「うん、いいね。おいしい、細い麺に透明の出汁がとてもあう。久しぶりにおいしいものを食べた気がする」
雫井は喜んだ。悠介は餃子の皿も雫井に勧める。
「餃子も皮が薄くて一口にはいるから、おいしいですよ」
「ありがとう、頂くよ。ビールもほしいところだけれど、お酒飲んで醜態を若人の前でさらしたくないんで、やめておきます」
破顔の笑顔で答えた。
杏奈は思う、この人、こんな風に笑うんだと。
でも、そう言いながらも時折、真顔になるとき、何を考えているのかと思う。人には色々と背負うものがあるのだと。彼の目尻に浮かぶ皺は苦労の証なのだ。慣れない土地で、望まない仕事をしなくてはならない苦悩が雫井を追い詰めて、孤独にしていたのかも知れない。杏奈は短い会話をつなぎ合わせて雫井というひとの片鱗を見つけたような気がしていた。
この人はじっと座って人形の絵付けをするよりも、スーツを着こなして仕事をする方が似合うと思った。職人には向かないのではないかと……。
「杏奈さん、もうおなかいっぱいになりましたか?」
雫井は自分が見られていることに気が付いて言葉を投げた。
「はい」
「え、杏奈、お昼抜きだったんか?」
「うん、たまたまよ、時間がなかっただけやわ。雫井さんのお口に合ってよかったなって」
「はい、誘ってもらってありがとうございます。誰かと食事するのは、本当に久しぶりで、楽しかったし、おいしかったなあ。また、誘ってください」
「安くておいしいお店は他にもありますよ、また、今度」
悠介はビール飲み干して笑った。
杏奈は隣で、うんうんと頷いた。雫井は自転車で来たようで、一人手をあげて自転車に乗って夜の闇に消えてしまった。
悠介は鼻歌まじりにゆっくりと歩いていた。
杏奈は何も言わずにまっすぐ前を向いて歩いている。時間は夜の九時過ぎで家に帰るのは中途半端な時間だった、早くもないし遅くもない。
二人の行きつけの止まり木という喫茶店がギリギリあいているかという時間だった。悠介は花市場へ行くのが早い時間なので、杏奈はどうする? という顔で見るが、悠介は知らん顔をして店へと向かった。
学生の頃から、お互いに言いたいことがあるときはいつもこの店で話し込んだ。うれしい、哀しい、悔しい、色々な出来事をこの古びた喫茶店の中で話してきた。マスターは話しをすると返すが、こちらから話をしないと無理に割り込んでこない。かなり頭が白くなってしまった。それほどの長い時間を過ごしてきたということだろうか。
悠介の父親は健康診断で初期の脳梗塞が見つかって、処置が早く大事には至らなかったと聞いたのも、ここだった。
「仙台、いいな。俺、行ったことがないけど、杏奈は?」
「行ったこと、ないなあ」
「雫井さんが話していた、七夕祭り、今検索したらきれい。行ってみたいな」
悠介はスマホを杏奈に見せた。
「ほんまや、きれいやね。確か、テレビのニュースで見たことあるかも。行ってみたいって、店はどうすんの?」
「おかんに頼んだらいいやん、少しぐらい。せりは毎日行く必要もないし、暑い時は花が少ないから」
「日帰りはしんどいかもね」
「一泊すればええやん」
杏奈はいつものように返事をしていたが、悠介と旅行に行ったことはこれまでにない。聞き流すのがいいのか、それとも否定するのか、少し悩んだが、スルーすることにした。スマホの画像はとてもきらびやかで、色とりどりの吹き流しに似た大きな笹飾りがたなびいていた。まるで、空から光が降り注いで来るように見えた。
杏奈は男女の友情を守りたくて、悠介を失いたくないから、お互いに恋愛感情を前面に出さないようにしてきた。お互いにそれぞれの彼氏や彼女の話をあけすけにしても、かまわない。
今はお互いに付き合っている人がいないが、悠介は雫井のことを杏奈にはどんな人か、再び尋ねることはしなかった。それが暗黙のルールなのだ。
しかし、この日を境に悠介は限りなく杏奈のそばにいながらも、先ほどの自分以外の男性に心を奪われてゆくさまを見つめるという、苦行に耐えることになるとは思ってもみなかった。
数日後、どちらから会おうと言うまでもなく、杏奈と悠介はいつものラーメンを食べるために、店に揃っていた。いつもと同じネギラーメンと餃子、そして白いライスを二人で適当に分けて食べる、それはまるで兄弟のように……。
「俺も小さな花やの跡継ぎだけど、あの晃司さんという人は大変そうやな。サラリーマンをやめて、陶芸や、人形の絵付けなんて」
「清水焼、西陣織なんかは本当にできる人がドンドン減ってきている、でも観光客相手の日本料理、京懐石などは若者が修業しに、京都へ来てそのまま暖簾分けしたりするらしい」
「料理か、人間だから食べることをやめられないしなあ。外人相手ならば、味は別に本格的でなくても、そこそこ、客は入るのかな?」
杏奈は思う、立地と見栄えさえよければ、それでと……。
「あの人を初めて見たときは機嫌が悪そうで、怒っているのかと思ったのね」
「へえ? そうなんか」
「うん、無愛想で。何かにキレている感じ」
「何か、イヤなことでもあったんかねえ?」
「知らない」
「でもあの時は、そんな感じしなかったな」
「だよね」
ラーメンを食べると、次は白いご飯に餃子と杏奈は決めていた。麺類を先に食べないと伸びてしまうから。
「京都によそからきて、なじむのは難しいだろうな。慣れるまでは、他人と付き合うのはしんどいのかも。俺たちは生まれた時から、ここにいるし、わからん。でも東京へ行った時は、俺もはじめの三ヶ月ほど、なんか、小馬鹿にされている感じした」
「へえ、そういうものなん?」
「うん、まず関西弁。京都ですといえば、わあ~とか言われるけれど、それは憧れみたいな?」
「ああ、そういうこと?」
「うん」
そのあとしばらく、モクモクとご飯を食べた杏奈はため息をついた。
「よーし、帰ろか」
「そうだね、土曜日まで頑張ろう」
「俺は土曜も仕事だけどね」
杏奈が財布を出してお金を払おうとした時、
「もう、あの晃司さんとは関わらんほうが、ええよ」
「なんで?」
杏奈はわざときょとんとした顔をした。
「おまえ、好みじゃないか? ああいう感じの人。高校の物理の先生で前芝先生だったかな。好きだっただろう、似てるよな、なんとなく」
「そう? 似てないと思うけど」
視線を合わせることなく、杏奈はスクーターの鍵を差し込んでヘルメットをちょこんとかぶる。夏場はこのヘルメットが暑苦しい。
男は見た目と普段から話していた杏奈のことを知る悠介が感じたことは当たっている。悠介ほど杏奈のことをわかる他人は他にはいない。
数日後、昼休みにコンビニのサンドイッチを食べている時に携帯電話がなった。登録されていない番号だが、仕事の関係かも知れないとでてみる。
「あの、人形師の雫井ですが……」
「あ、こんにちは」
「いま、お時間いいですか」
「はい」
「何度か電話をしましたが、忙しくされているのか、繋がらなくて」
「あ、すみません。仕事の番号の電話だから、かな」
陶器市の校正、校閲のあと、印刷へと忙しくしていて、留守番電話を確認していなかった。自分の私物の携帯番号は教えていなかったし。
「この前は、ありがとう。楽しかったです。よかったら、今度、お好み焼きでも食べに行きませんか?」
くぐもった、小さな声で雫井は言う。
杏奈は悠介の言葉が引っかかりながらも、言葉を選ぶ。
「はい、いいですね。でもね、行きたいのですが、実は母の体調が悪くて入院しているのです。いつになるか、わからないけれど、私から連絡してもいいですか?」
「はい、何も予定はないですから」
「このあと、私の個人携帯から電話を入れますね」
「あ……」
杏奈はそう言うと一方的に通話を切ると、自分の携帯電話を出して、雫井からかかってきた番号を登録した。そしてすぐにかけてみる。
「吉沢です、すみません。がちゃぎりして」
「いいですよ、これが吉沢さんの個人携帯ですか?」
「はい、仕事のじゃないから、いつでもかけてくださいね。お昼休みのあとはこの前の仕事の印刷に入るので、少しバタバタします。ごめんなさい」
「忙しいところ、すみません」
「いいんですよ、私もあの時お邪魔したから、これでおあいこです」
杏奈は電話を切ると、デスクの引き出しに携帯電話をしまった。
夕方まで本当に忙しく一息つこうと、腕時計をみたら夕方の五時だった。
飛ぶように時間が過ぎてしまった。
母の見舞いは二日に一度と決めていた、毎日病院へ行くとなんだかとても疲労感が強くて、気をつけないと鬱っぽくなってしまう。
杏奈は母と二人で生きてきた、中学受験が終わったときに父がいなくなった。二人は離婚した。中学と高校の教師である両親は相性が悪かったようで、よく言い争いをしていた。よくある、性格の不一致ということだそうだ。しかし、最近になって母、鈴子は重い病気だと検診でわかり、今は休職して入院生活をしている。
今回の母の病気は父には伝えていない。
母がそれをかたくなに拒んだ。
「他人さんに言うことじゃないからね」
母にとっては他人なのだが、杏奈には父親なのに。
(他人さん、他人なのか)
夫婦は所詮他人の集合体で、時には子供を成すときがある。一生苦楽をともにして、相棒をあの世へ見送るのがスタンダードだとされている。しかし杏奈は本当にそれでいいのか? と考え始めた。
誰も苦しめない、困らせない、それぞれに仕事や立場がある。だから、母は自分の兄にも、この終わりのある戦いを知らせてはいない。
娘である杏奈一人に最後を見届けてほしいというのが、母の願いだった。たとえそれがどれだけ杏奈を苦しめているかと、いうことだったとしても、だ。
母が検診で異常が見つかり、府立医大で再検査をして結果、腫瘍がリンパ節に転移していて、原発不明癌ということで、ステージ4だった。まだ、母は還暦も過ぎていない、五十五歳の誕生日も迎えていなかった。
しかし、取り切れるだけの腫瘍を取ると母が医師に言ったことから、体力が極端に落ちるかと心配されたが、入院してまもないことと、まだ、若いからということで、なんとか手術をしてから一ヶ月が過ぎた。抗がん剤の副作用もあることから、母には病院へ見舞いに来ることは禁止された。
一人の方が戦えるということ、いわゆる我慢や弱音を垂れ流しにしない、それが母の願いだった。杏奈にそれを見せつけることはしないという、せめてもの思いやりだったのだろう。
今は携帯電話がとても役にたつので、個室から機嫌のいいときには、窓の外の景色や、手術していない足先や痩せた指の画像を送ってきた。
杏奈は一ヶ月ぶりに母と会うのには、かなりの覚悟が必要だとわかっていた。個室の部屋番号は聞いている。
「久しぶり。どんな感じ?」
「ごめんね、こなくていいのに」
「約束の一ヶ月が過ぎたから、きたよ。痩せたね。なにか、食べられるものを買ってこようか?」
「大丈夫、下にコンビニがあるから」
「面会時間にはとても厳しいから、個室でもね」
「いいじゃない、怒られるのは私だから」
見る影もないほどの痩せた母を直視するのは厳しかった。
よく通り声は張りを失い、語尾が聞き取れない。
「元気そうで、安心したわ。また来る。次からは二日おきに前みたいに来るからね。好きだったジュースだけは冷蔵庫にいれておくから」
「ありがとう、助かる。ジュースだけで生きてるようなものよ」
そのあと、あかない窓を二人でみて、カーテンを閉めた。
杏奈は立ち上がり、母の顔をもう一度見ると、手を小さく振って背中を見せた。これ以上ここにいたら、泣いてしまうから。
杏奈は談話室の自販機の前で、ひとしきり泣いた。
震える手で携帯電話を取り出すと、なぜか雫井に電話していた。
「あの、今から少し会えませんか?」
「いいですけれど……。吉行の一筋向こうにある一休という、お店知っていますか?」
「ちょっとわからないので、お店の横で待っててください」
「いいですよ」
杏奈は駐輪場でハンカチを出して涙を拭くと、ヘルメットをかぶり走り出した。どうして雫井さんなんかに会いたいんだろう。十五分ほどすると到着する。スクーターを止めると、雫井は立っていた。
すぐに杏奈だと気が付いていて、はにかんだような笑顔を見せた。夕方が雫井の背中に迫り、路地は薄暗かった。
「こんばんは、もっと先の話かと思ったけれど………。あれ、どうかした?」
雫井は先日の杏奈とは違うということに、すぐ気が付いた。
泣きはらした顔の女に対しては何も言わない方がいいとわかっているのか、ぼんやりと横に立っていた。五分ほど経過しただろうか。
「ごめんなさい。会ったばかりの人に」
「悠介君を呼んだ方がいいんじゃないかな?」
「迷惑ですか?」
「いいや、そんなことない。でも、僕はあなたのことを何も知らないから」
「知らなかったら、面倒ですよね」
「そういうことじゃなくて、適任者がいるんじゃないか、な、と思っただけで」
杏奈は思う、そうだ、いつもならば、悠介を呼び出してギャン泣きしていたはずだ。
雫井は、薄暗い路地の黒塀にもたれて、時間が過ぎていくのを待っているかのように、ぼんやりと流れる雲を見ていた。ポケットからたばこを出すと、咥えようとして、杏奈を見ていた。
二人は無言のまま、周りの空間は空気が少し希薄になっていた。
「お好み焼きやさんに、行きましょうか」
杏奈は苦しさを胸にしまいひとこと、ようやく絞り出した。
「その前に、僕でよければ、話してみたら。全部ぶっちゃけて。見ていると、こっちが苦しいから。貸すよ、僕なんかでよければ、時間も、体も」
そう言い終えると、立ち尽くす杏奈を雫井は抱きしめた。
「全部、聞いてあげるから。それを僕は煙にしてしまうから」
「そう、あなただったら、誰にも言わないもん、ね」
「ああ、誰にも言わない。知られる心配ないからな」
雫井の服からはたばこのにおいがした。
杏奈はじくじくと沸いてでる涙を止めることはできなかった。
そのうちに、声がでそうになり、押し殺した。他の人が見たら変に思われるだろうから……。時間にしてどれくらい過ぎただろうか。微動だにしない雫井のシャツは杏奈の涙と鼻水と化粧でベタベタになってしまった。
男性の胸でひとしきり泣いたのは初めてのことだった。
杏奈の母、鈴子の余命宣告の日以来、仕事をすることで、なんとか、それを忘れようとしてきたが、涙のダムは決壊寸前だった。
「これじゃ、どこにも行けないな」
雫井はわざとおどけて、杏奈を和ませようとしていた。
「ごめんなさい、私……」
「謝らないで。ここで、少し一人でいられる? すぐに戻るから。絶対に動かないで」
そう言うと、杏奈をスクーターに乗せた。思ったよりも早く走り去ると路地の向こうに消えた。そして本当にすぐ、小走りで戻って来た。
「この通りの先が、僕の借りている部屋があるんだ。着替えてきた。顔を貸して」
「え?」
杏奈が雫井を見上げると、氷で冷やしたような冷たく濡れたタオルで杏奈の顔を拭いた。まるでずぶ濡れの子犬でも拭くように。
「ごめんね、姪っ子とか、そういうのがいないから、メイクとか関係なく、拭いちゃった」
「すっぴん、見られたくない。やだな。帰る、ありがとう、ごめんなさい」
杏奈はまた違った意味で胸が苦しくなった。この人のことを好きになりそうで、どうしたらいいのか、戸惑うばかり。誰にでも、こんなに優しいのだろうか。
「僕の晩ご飯は、どうなるの」
雫井は、少し笑いながら、杏奈に言う。
「そうだ、おなか減りましたね」
「うん、あなたの顔を誰もみないよ。みんなお好み焼きを焼いて食べることに夢中さ。おまけに、素肌もきれいだし、なんら違和感ない」
「失礼ですね、それって、すっぴんでもかわらないってことでしょ」
「眉毛、だけは残るようにして、拭いたつもりだよ」
言うが、早いか、雫井は杏奈の手首を軽く握ると、通りを並んで歩いた。
お好み焼き・吉樂はすぐそこだった。
暖簾をくぐると、急にいい香りが鼻孔に入る。こんな時でもおなかは減るんだと杏奈は思った。
仕事出であった時の気まずさはどこかへ行ってしまい、お互いの家族の話や、大学時代の自慢ばなしや、失敗したことなどを話ながら、お好み焼きを食べた。この店は店の人が焼いてくれるスタイルで、失敗しなくていい。
雫井はここによく来るらしくて、ビールを注文していた。
まるで、ずっと前からの知り合いのように、いつしか、敬語を忘れて二人は話して、笑った。ビールを一口だけ飲んだ杏奈は、思い切って話してしまった。
「お母さんね、末期の癌で、余命宣告された。今日、手術と治療のあとはじめて病院へ行ったの。母が絶対に来るなと言ったから。一ヶ月行かなかった。だけど、すごく痩せてて。それ見たら、なんか、もう明日にでも、死んじゃうんじゃないかって……」
「うん、そうか。一人でそれに耐得ようとした。でも、無理だった」
「本当にすみません」
「いいよ。気にしないで。別に僕は何もしてないし……」
「お父さん、嫌いか?」
「うん、好きじゃない。離婚を切り出したのも父からだったし」
「でも、不倫して出て行った訳じゃないし。そこは夫婦の問題で、あなたとお父さんの関係とは別物じゃないのかな。お母さんのことで一人胸にしまって、苦しんで。もっとお父さんに頼ったらどうかな」
「あの人が私たちを置いて家を出たのは、事実よ。おまけに母は知られたくないって言うし」
「そこはお父さんに直接、口止めされているけど、言うべきだと思うとかなんとか、言えばいいじゃない? お父さんも高校教師なんだからさ。理解できない人じゃないと思うけどなあ」
「うん……」
「こんなに辛い思いを娘一人が全部受け止めるなんて。世の中にはいるよ。そんな人、他にもね。だけど、同じ京都に父親がいるなら」
「もう、ずいぶん前に父ではなくなりましたが」
「だよなあ、僕みたいな他人には、わからないこと、あるんだろうな」
「あ、ごめんなさい」
すっかりぬるくなって苦いビールを飲もうとしたら、雫井が止めた。
「帰ろうか。すっかり遅くなった。もう、十時すぎた。送るよ」
杏奈はバッグから財布を出したが、雫井はその手を押し込んだ。
「じゃあ、次は私が」
「うん、それが狙い。次がある方が楽しい」
真っ黒な夜の空の下をバイクを置いた場所まで並んで歩く。
オレンジ色のたばこの火がともる。
「今日は、本当にごめんなさい」
「いいよ、気にしないで。次はおいしいうどんやさんがいいかな」
「はい」
そう言うと、雫井は背中を見せて来た道を歩いて行く。オレンジ色の明かりだけになった時、杏奈はヘルメットをかぶろうとした。
「気を付けて、ビール、一口のんでる」
そう声がした。
飲酒運転、乗れないやと杏奈はバイクを押して歩き出した。
ここからだと、マンションまでかなりある。
あれだけ、母のことで苦しんだ気持ちが軽くなっていることに気が付いた。気持ちのすり替え、雫井を好きになりそうな気持ちとの。いま、戻って来てくれないかなと思いながら、とぼとぼ歩く。杏奈は止まって振りかえる。
オレンジ色のたばこの火が近くなる。
背の高い影がそこにあった。
「帰せないだろ。こんな女の子。一人で」
「私もバイク押して帰れないと思ってたところ」
「貸してみな」
雫井は杏奈のバイクのハンドルを取ると元来た道へと歩き出す。
「僕のマンションのガレージに置いておけばいい。タクシーで帰ればいいじゃないかな」
雫井がそう言い終わる前に、杏奈は雫井に後ろから抱きついていた。
バイクを置いて、鍵を抜くと、
「こんな、明るいところで、だめだよ」
雫井は笑って言う。
「暗いところなら、いいの?」
「うん、そういうのは暗いところじゃないとね」
杏奈はこのとき、全てのたがが外れてしまっていた。
いつも、自分を強く、そして賢くみせようという鎧を脱いでしまっていた。普通の人として、肩の荷を降ろしたかったのだ。
「賃貸だけど、僕の部屋にくる?」
「バイク……」
「あ、このマンションは自転車もバイクも契約車なら自由に置いていいんだよ」
雫井は裏手の屋根がついた汚い二輪置き場に杏奈の原付を置いた。電灯は一個切れていて、もう一つもついたり消えたりしていた。誰が置いたのか、薄い布団が隅っこに置き去りにされていた。お世辞にもきれいなマンションとは言いがたかった。
一階の角部屋が雫井の部屋で、鍵を開けると、湿気とたばこのにおいがした。雫井は慌てて、先に部屋に入り電灯を付けると、
「そこにいて、とにかく。そのまま」
「はい」
換気扇のスイッチを入れて、エアコンのコントローラーを探してスイッチを入れる。ガガと音を立てたあと、エアコンは正常に動き始めた。杏奈はあまりじろじろと見るのもなんだから、俯いたまま、自分のつま先を見ていた。やはり、帰ろうか。ビールなんか、飲むんじゃなかったと、後悔していた。
「あまりきれいじゃない。わかってると思うけど。どうぞ」
「お邪魔します。お掃除などはどうされているんですか?」
「掃除の時間が夜間は禁止、洗濯も。取り決めが多いんだよね。賃料が安いから。入れ替わりが激しくて」
「ルンバならいいのかな」
「ルンバ、ああ、丸い自動掃除機ね。あれ、高いから」
「でも、いない間にきれいになれば、助かりますよ」
「考えておくよ」
雫井は笑いながら洗面へ行くと、手を洗い、杏奈を手招きした。
一応トイレと洗面、風呂場は別のようだった。部屋は散らかっていたが、
このあたりは見やすく、きれいだった。手を洗うと雫井がタオルを貸してくれた。鏡で自分の顔を見た杏奈は、
「酷い、こんな顔、やだな」 と、呟いた。
「僕のでよかったら、そこに洗顔あるけど。顔を洗いたければどうぞ」
部屋を整頓したあと、冷蔵庫からボトルの水を持って後ろに雫井が立っていた。
「これ?」
「うん。女性も使えるよね」
先ほど、タオルで顔を拭いてくれたら、ファンデーションがよれたまま、顔にくっついていることが、我慢ならなかった。
「じゃあ、遠慮なく」
「ゆっくりして、納得が行くまで洗って……」
テレビの音が聞こえてくる。
NHK だろうか、CM がなく誰かが話す声だけが聞こえる。
「すみません、このタオルはここに干してもいいですか」
「あ、気にしないで。乾燥機つきの洗濯機だけが取り柄なんで、そのかごに
放り込んで。明日の朝、洗濯すれば帰れば乾いてるから」
部屋はなんとなく、整頓されているように見える。簡易なベットの上に敷かれたままの布団が目に入った。ワンルームだから、こんな感じなのは知っていた。昔、大学の友人の部屋に遊びに行った時も、そうだったが、ここは更に狭く感じた。窓があることが救い。
薄暗い部屋に小さなソファーがあり、そこに雫井は座っていた。
杏奈はその横に座ることができずに、テレビを見るフリをして、キッチンスペースに立っていた。
「遠慮しないで、ここに座って」
雫井はそう言うと、自分のベットの上に腰掛けた。
「本当にものが少ないですね」
「いつまでも、ここにいるわけじゃないし、しばらくしたら帰るから」
「ですよね」
「でも、今日ははじめてのお客さんで、僕はどうしたらいいのか、よくわからない。女の子の好きなお菓子もおいてないし、ジュースもない。あるのは缶ビールと、酒のつまみだけ。ごめんね、とりあえず水でも飲んで、冷えてるから」
「ありがとうございます、何もいらないです。ただ……」
「そう、タクシー呼ぼうか。でもバイクはないと困るな。免許はあるし、僕が明日乗って行こうか?」
「悪いから、それも」
「一番いいのは明日の朝、ここから乗って帰るのが」
そう言いながら雫井はその先を言わなかった。
杏奈は、
「もう、今日はなんだか疲れてしまったので、お邪魔でしょうが、ソファで仮眠取らせてもらえますか」
「僕はいいけど」
そう言うと、小さなクローゼットを開けて、タオルケットを出した。
「シャワーも浴びてきたら? バスタオルもここに置くよ。先にいかない?」
「いや、いいです」
じゃあ、と電気を消して雫井はテレビの音量だけを小さくして部屋を薄暗くした。どうやらシャワーに行くようだった。
杏奈は一人になりたくなくて、雫井の手を取った。
「え?」
振り向いた雫井の唇を杏奈は自分から探して唇を重ねた。
「驚いた。でも、もう止められないけど」
「そのつもりで、ついてきました。雫井さんの顔、タイプなんです」
「はじめて女性から言われた、そういうの」
雫井の力は強く、杏奈は倒れそうになる。仕方なくしがみついた。
唇をこじ開けてくる、杏奈は頭がぼんやりした。
何をしているんだろう、私……。男性との付き合いはかなり前に終わっていて、こういうことは久しぶりだった。男性の力の強さとその重さを感じるのよりも、自分がとても高揚していることに、気が付いていた。雫井が覆い被さった時には、杏奈は自分で脚を開いていた。まるで雨のように降るキスは瞼の上が一番いい。心地よくて、眠りそうになる。この人の営みはこういう感じなのかと、完全に受け身になっていた。あの時、はじめて出会った時の嫌悪感と、今の場面がかけ離れ過ぎて少し笑える。
と、同時に知らない間に半裸にされて、杏奈の肩に大きな手が乗せられると広い胸板が押しつけられる。
「あ」
杏奈は思わず声が出た。こんなに自分は性欲が強かったのだろうかと思うほど積極的になっていた。こういう行為の中で、こんな自分ははじめてだった。
「アレ、今日はないけど、心配しないで」
「大丈夫、ピルのんでるから」
「でも念のために、外にだすから。忘れてしまえ、今までのこと。なにもかも」
荒い呼吸の中で雫井は杏奈の中に深く潜り込むと、何度も突き上げる。
どこまでが奥なのか、杏奈は自分でもわからなかったが、今日初めて奥にあたっていることを知る。
杏奈はのけぞり、何度も声をあげた。
羞恥心などどこにもない、良く知りもしない男の頭を抱えて、幾度となく悶えて、快楽の頂点に達した。
いつの間にか、疲れたようで杏奈は寝てしまっていた。
雫井のことも自分の裸体も、脱がされた下着などのことも忘れて……。
普段ははじめての場所でなかなか眠れないほど、神経質な性格だった。
旅行に行こうが、新幹線でも飛行機でもすぐに寝る人が羨ましかった。
次に目が覚めたら雫井とは、単なる知り合いに戻れないことだけはわかっていた。
杏奈が目を覚ましたのは、まだ朝ではない時間と思われた。
何一つ身につけていない姿で、ベッドの上にいるようだった。たばこのニオイがするタオルケットが掛けられていた。
上半身をそっと起こすと、カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりだけで、足下に造作なく置かれた衣類や下着を見つけた。
到底素敵とは呼べない下着を身につけた。
杏奈が目覚めたと知ったようで、雫井はソファーのあたりから空咳をした。ここにいると知らせるために。
「まだ四時だよ、帰るには早いからもう少し眠ったら?」
「悪いわ、雫井さん、そんなところで眠れるはずないし」
「でも、女の子をその辺に寝かせる訳にもいかない」
「じゃあ、隣に」
杏奈はこのスペースでは無理だとわかっていたが。
「無理だよ」
「今まで寝かせてもらったし、かわりましょ」
「いいや、これでいい。じゃあ、隣じゃなくて下で寝るから、それと、苗字で呼ばれるとなんか、アレなんで、晃司と呼んでくれないかな」
「急には無理かも」
「いいんだ、そのうち慣れる」
そう言うと、晃司は小さいソファーをベッドの横にずるずると押し出すと、横になった。
「これで、いいかな」
「うん」
杏奈は目を閉じた。
晃司が、杏奈の方を向かずに反対を向いて横になっていた。
その背中に手を当てると、体温のぬくもりを感じて、眠ることができた。
翌朝は雨音で目が覚めた。
隣を見ると猫のように、丸くなり眠る晃司が見えた。
杏奈はタオルケットを晃司にかけて、ベッドから起き上がり、洋服を身につけた。寝息が聞こえるので、起こさないように、そっと、部屋を歩いて、自分のバッグを探す。時間は朝の六時過ぎ。
杏奈はそっと部屋を出ようかと考えたが、鍵をかけることができない。
洗面やトイレのあるドアを静かに開けて、顔を洗った。晃司のコップに洗口剤を入れて口をすすぐ。しばらく、鏡の前で自分の顔を見る。昨日までの自分と、何もかわりはない。急に恥ずかしさがこみ上げてきた。この顔が快楽に溺れる表情を晃司は見たからだ。自分では決して見ることのできない表情を……。
帰りたいけれど、帰れない。
杏奈はこのドアを開けて、晃司が目覚めていたら、どんな態度を取ればいいのか、わからないでいた。
「おはよう」
晃司は部屋のカーテンを引いて、ソファーを元の位置に戻してキッチンに立っていた。
「おはようございます、あの……」
「仕事、行かないとね。早く帰らないと。珈琲は飲める? それとも水がいい?」
「じゃあ、お水をください」
「僕ももうそろそろ、仕事に行く準備しないとね」
「ごめんなさい、昨日は……」
「あ、そういうのはいらないよ。本当に気にしないで。僕も杏奈さんと呼んでいいかな。馴れ馴れしいか、一度寝たぐらいで」
「いえ、そんなこと。ないです」
杏奈は恥ずかしさが再燃してきて、晃司の顔をまともにみないまま、部屋を出ようとした。
「気を付けて。バイク置き場まで行こうか?」
「いいえ、一人で大丈夫です。お邪魔しました」
「水しか出ないけど、こういう時はおかまいもできませんで。と京都では言うのかな?」
わざと冗談を言う。晃司は話を逸らせようとしたのだろうか。
「ううん、少し違うかも。じゃあ」
「またね。で、いいかな」
杏奈は頷いて、部屋をあとにした。
スクーターに乗ると、まだ朝の気持ちよい風が顔に当たった。
朝から三十度を越える気温が普通の酷暑の夏はすぐそこへ来ていた。
慣れた自宅近くの風景に杏奈は気持ちが落ち着くのを感じていた。高ぶっていた先ほどまでの自分が冷えていく……。母と暮らしていた頃が懐かしい。入院していないからと、朝帰りをするなんて、考えられないことのように思えた。
玄関から部屋に入ると、大きくため息をついた。
いったい何のため息かはわからないが、立ち止まっている時間はない。
すぐに浴室へ入ると、シャワーを浴びることにした。
自分と母が使うボディソープやシャンプーの香りが、杏奈を日常へと引き戻す。男のにおいが洗い流されていくのがわかる。それでも、この小さい体のあちこちを男の手が触れたと思うと、顔が熱くなる。だめだと何度顔を振っても、生々しい昨夜のことが頭をよぎる。
時間にせかされて、浴室からでると、自分の厚みがあるバスタオルで体を拭くと、二階の自室へと階段を上がり、下着を身につけた。髪から水滴がしたたる。バスタオルで髪を軽く拭くと、白いポロシャツと、麻のジャンバースカートをすとんと着た。
化粧を一通りすると、冷蔵庫の中にある、輸入もののリンゴを洗ってかじった。酸味が強く小ぶりなリンゴを杏奈は最近好んで食べるようになった。母の病室の冷蔵庫にも入れておいたが、きっと母は食べていないだろう。皮をむいてまで食べる元気など、ないだろうと昨日見舞いに行ってわかった。
午前の仕事をなんとか、こなすと頭が正常になってきたので、離れて暮らす父に電話をした。晃司に言われたからだ。彼がそう言わなければ、杏奈は最後まで連絡はしなかっただろう。
「お父さん、今、電話してていいかな?」
「ああ、昼休みだからな。どうした、珍しいな」
「電話で済む話じゃないの、いつもの止まり木に六時頃にこられない?」
「職員会議はないから、行けると思うが。何があった?」
「そのときに話すわ」
「わかった」
父はそう言うと電話を切った。それはいつものことだった。自分から電話を切る人だ。
晃司の胸で思い切り泣いたので、もう泣かずに父親に正確な情報を伝えることができるような根拠のない自信があった。場所は杏奈が高校時代から通う自宅から近くの止まり木。先日悠介とも来たばかりで、今頃はやりのカフェとは違って、落ち着いた純喫茶という感じの店だった。両親が離婚して父が家を出ると、杏奈はここで時々、折に触れて父と会う店にしていた。
杏奈は仕事を早く切り上げて、いつもの席でレモンスカッシュを注文すると、父は時間よりも早く入店した。父が座ると、注文したレモンスカッシュが運ばれてきて、父はブラック珈琲をホットで注文した。
「お久しぶりです、お父さん。先に言いたいことを言ってしまいたいの」
杏奈は前置きをしてから、母、鈴子の現状を報告した。
父、巌は杏奈の言葉を漏らさぬように、表情を変えずに杏奈の隣の椅子の方に視線を送りながら、聞いていた。今年で五十五歳になる巌は以前にもまして髪が真っ白になっていた。細くて頬がこけていて、父の方も病人のように痩せている。
「何か、困ったことや、私にしかできないことがあれば言いなさい。だけど、僕は鈴子さんには嫌われている。見舞いにも行かない。第一、私には言うなといわれているんだろう」
「わかりました。どうしても一人で抱えきれなくて。聞いてほしかったし、お父さんには言うべきだと思ったの」
「ああ、それは正しい」
父は離婚してからは元妻のことを鈴子さんと呼ぶようになった。長く会わないせいか、二人の縁は完全に切れているように感じられた。父は杏奈が成人するまでは定期的にあうようにしていたが、二十歳を過ぎてからは杏奈が会いたいと言わない限り、連絡と取らなくなった。
「手術や入院の承諾書だけは保証人が必要だったから、病院の受付で書いて書類を窓口に出したの。お母さんは私さえ、寄せ付けない。感染症のこともあるし、入院病棟は立ち入りできないしね」
「そうだな。終わりが決められているのなら、おまえも辛いだろう、耐えられないなら、私を呼びなさい。さすがの鈴子さんも私のことを追い出す元気はないだろう。おまえのそばにいるから。一緒におくろう」
父は杏奈の目を見て言った。
「今のうちに会わなくていいの?」
「ああ、行かない方がいいだろうて」
「そうかな」
「そう、私の顔を見たら、余計に具合が悪くなるだろう」
父は少しさめた珈琲を飲み干して、席を立った。
どうしてこうも、冷徹になれるのだろう、あの人は。
涙が出る、悔しいのか、情けないのかはわからないが、やはりもう少し違う反応をしてくれるのではないかと、少しでも期待していた自分に呆れた。
「めんどくさいんだよ」
杏奈は大きな声で叫びたかった。
自分という子供がいるということは、あの二人は昨日の自分たちのように、体を重ねて何かしらの熱情があったはずだ。だから今、自分がこうしてここにいるのだ。本当は母は心底で、待っているのかも知れないのに。手負いの猫が病や怪我で死ぬ前には飼われていた家から姿を消すと祖母から聞いたことがある。真偽はわからない、最近はあの警戒心が強い猫が臍を上にしてまるでぬいぐるみのように眠る画像が溢れている。
しかし、母はこの類いではない、昭和の人なのだから。
ここでまた、晃司の顔が浮かんでくる。また、彼をスケープゴートにしてしまおうという、ずるい自分がここにいる。これ以上あの人にはまってはいけない。いつか仙台へ帰る人、別れはそう遠くない地点にあると思う。おまけに晃司は一人で孤独だった私に救いを求めたから、ちょっと遊べる女だと思ったのだろう。杏奈はお互いに都合のいい関係だったのだと、わかっていた。おまけに病に伏している母親の最期を看取るさだめと決められている。
でも、聞いてほしい。
一人って、こんなに寂しいのだと、耐えられないと弱音を吐き出したいと思っている。同情してまた、昨夜のように黒い部屋で抱かれて、忘れた気になるけれど、それはほんの一瞬の快楽でしかないということも分かっている。
その翌週、杏奈の母は一時退院が許可された。
二人で病院の前に並んでいるタクシーに乗り込んだ。
母はこれが自宅で過ごす最後の時間だと悟っていたと思われる。一連の治療が終了して、これが区切りだとわかっているに違いない。
久しぶりの自宅に母は終始笑顔でいた。二人だけで過ごしていたが、やがて重苦しい雰囲気荷なり、母が悠介を呼んだらどうかと言うので、杏奈は迷惑だろうと思ったが、ラインをすると、たくさんのきれいな花を抱えてやってきた。まるで、そこにいるのが当たり前のように悠介はいた。高校時代の思い出や、東京へ行って失敗した時のはなしを、杏奈の母に面白おかしく話す。それはずっと前にもした話だったが、母は笑って聞いていた。
「おばちゃん、夏が終わったらまた、会おう」
「そうやね。今度はお寿司でも買ってきてくれる?」
「わかった、どこの寿司でもええんか」
「任せるわ」
この会話も最後になるのかもしれないと全員がわかっているだけに余計に物悲しい。鈴子は最後に悠介に杏奈のことを託したかったのかも知れないとあとで悠介は言った。
病院へ戻る日の朝は花やの白いバンで、悠介は迎えに来てくれた。
杏奈はありがとうと言った。悠介が病院へ送ると言って聞かなかったから、しょうがなく教えた。
バンは乗り降りしやすいからだ、と、悠介は言ったが、それも長い友達の思いやりだと心に沁みた。小さくなった母を杏奈は車椅子に乗せると、入院病棟のナースステーションへと向かう。悠介は荷物を持ってついてきてくれた。
そこで、母と、自分たちに分かれた。
看護師が、母を連れて行くのを見送るのが辛くて、無理に笑顔を作ろうとすると、変な顔になった。
悠介も、後ろを向いて泣いていた。
それとは別に、杏奈は晃司と幾度となく夜をともに過ごした。杏奈は慣れたふうに、スーパーで買い出しをすると、晃司のマンションへと滑り込んだ。さすがに毎日泊まる訳にもいかず、うるさがられるのかと思っていたが、帰るとも、泊まるとも晃司は言わずに杏奈が言うとおりにするのを、容認していた。一つだけかわったのは、杏奈がアレを買っていたのと同じく晃司も買っていたことだった。
大人の関係になると、十歳近く年齢が上の晃司は横柄になったり、俺の女扱いするかと思ったが、かわりはなかった。当たり前になったキス、色濃い時間は更に長くなった。晃司は部屋をきれいにして、たばこは毎日ゴミに出すようになり、布団も買い換えていた。
それはそれで、杏奈は嬉しくもあり、それ狙いなのかとも思う。
でも、自分だって病気の母を抱えて、そのストレスをぶつける相手としては、大人の男性だけあって、聞き上手であった。
晃司はたばこをやめると言いながらも、窓の外や、狭くて小さい物干しで紫煙をくもらせていた。杏奈はその姿だけは好きで、文句が言えなかった。まるで飼い猫のように、晃司の膝に手を置くと、体温が感じられて頬を落とす。晃司がそんな杏奈を抱き上げると自分の膝にのせる。そのさきにくつろぐ時間だけが、杏奈の支えになっていた。
その夜から数日後、晃司が急に仙台へ帰ると、杏奈に電話をよこした。
短い電話で、京都駅からだった。もっと前に知らせてほしかった、なぜ、何も言わずに、私は何だったのかと杏奈は苛立つ。
昼休みに晃司の部屋へ行くと、部屋は何もなくドアも開いたままの状態だった。今まさに引っ越し業者が去ったようにも見えた。布団袋だけが残されていて、引っ越し業者が頭をさげて、杏奈の前を通り過ぎた。
晃司の姿はないので、杏奈は吉行人形へといった。
店の中に晃司の姿があった、開き戸を開けると、店の夫婦と話をして、道具と、人形を紙ぶくろに入れているところだった。
晃司は店主に頭を下げると、杏奈のほうへと向かう。
外へ出て、いつもの裏路地で杏奈は、
「今、いいかな、話せる?」
「ああ、少しなら」
「ねえ、なんで? 私には会いたくなかった? 電話一本でいなくなるなんて」
「京都にはまた、時々来られるし。会おうと思えば……」
「私って、そういうものだった。使い捨てなんだ」
「違う、落ち着いたら話そうと思っていたんだ。父の容態が悪くなり、母から帰れと言われた。店も休業状態だし、亡くなったら、店を閉めることになるだろう。僕だけでは、どうしたものかと、今、吉行のおやじさんと話していたんだ」
「そう……」
「ごめん、杏奈のお母さんが入院しているから、言えなかった。心配をそれ以上増やしたくなくて」
「あなたが、晃司がいなくなったら、もっと不安になる」
杏奈はうなだれる。晃司もかける言葉がなくて、杏奈を抱きしめる。
不思議と涙が出ない杏奈は、晃司の瞳を強く見る。自分が写る。
「ねえ、なんで、私ばかり、こんなに辛いの?」
「気が弱くなっているところに、本当にすまない。でも一人にしないから、全部終わったら、京都に戻る。京都で違う仕事、サラリーマン時代の資格もあるし、転職もできるかも知れないから。しばらくの間だけ。このまま、一緒に仙台に連れて帰りたい。でも、無理だから。仙台の七夕祭りに、定禅寺通りの欅の下で会おう」
「そんな、約束。私も行けるかどうか、わからない」
「うん、いつでも、いいんだ。会いたければ、仙台へ」
「お父さん、そんなに悪いの?」
「危篤らしい、母一人なんだ。杏奈、悪いけれど、行かないと。連絡するから」
「そうか、そうだよね。早く行って」
杏奈は物わかりのいいフリをした。最後に嫌われたくなかったから。
大きな通りまで歩いた。
空車のタクシーがすぐに来た。こういうときに限って、すぐ来るものだ。
「一緒にいく」
晃司は哀しい目をして、杏奈を見るが頭を横に振った。
諦めるしかない、いまは。
全てを投げ捨てて、知り合って一ヶ月にもならない男の元へ、飛び込むことはできない。仕事、病気のは母親を……。鉛を飲み込んだように胸が重い。
タクシーは走り去った。
無情にも太陽の日差しだけが杏奈を照りつける。
同じ空の下にさえいれば、繋がっていると思えるだろうか。
仕事へと戻るが、何も手につかない半日だった。
それから一週間、晃司から何度か電話があった。
父親の状態は極めて悪いとのことで、京都へは当分来られないと言うことだった。杏奈は母の見舞いに行くと、仙台行きのことは何も言わずに、悪態をつく母の言葉を上の空で聞いていた。たった一日だけ、仙台へ行くだけのことを言うことはないだろうと……。
携帯電話を出して、定禅寺の欅の下にいると言った。
何度、電話をしてもでないから留守番電話に入れた、ラインの既読もつかないから。
とにかく、自分はここへ来た。
朝早く起きて、できるだけ長く一緒にいたいと思ったが、連絡は取れないままだった。最近はすれ違いが多くて、杏奈は晃司の顔を見ないとどうにかなりそうだった。
京都よりも気温が低く湿度もさほど高くないけれど、そろそろ、昼になりそうなので、ジュースでも飲めたらいいなと、カフェに入ろうと考えた。
何枚か写真を撮ると、歩き出した。京都とは違う趣の風景はとても美しくて、ここに住めたらいいのにと、ふと思った。
そこで携帯電話がなり出す。
「今、駅についた。どこにいる?」
「ここは定禅寺前、でも広いから。どこといえない」
「じゃあ、駅に向かうから」
「動かないで、そこにいて、いれちがうから」
「え、と、グレコの「夏の思い出」の前にいる」
「わかった、動かないで。とにかく、そこにいて」
晃司は叫んでいた。はじめて聞く、あの人の大きな声。
会える喜びで、喉がカラカラになる。
杏奈は両手を組んだまま、石のベンチに座っていた。木々の緑と行き交う車の中で、自分が今、どこにいるのか、わからなくなりそうになった。
強い風がざっと吹いたので、杏奈は欅の木を見上げた。
「ごめん、待たせた。病院にいたから携帯電話はバッグに入れていたんだ」
「いいよ、朝から勝手に来たのは私。きっと夜のうちに言えば、あなたが構えるだろうと思ったし」
杏奈は嘘をついた、たまらなく会いたくて、飛び出したとか、言えなかった。
「暑いのは嫌いなのに、定禅寺通りにずっといたの?」
「あなたが残したキーワードはそれだけだから」
「僕の好きな場所なんだ。でも、本当にごめん」
「もう、いいから顔をちゃんと見せて」
杏奈は晃司の首に手をまわして飛びついた。
「おいおい、やめなって。車から、人がみるだろう」
「京都ではできないことを、したかったの」
以前、京都の店を取材したことからの繋がりなので、最後にと一個もらった、松川だるまを晃司に見せた。
「この子、連れてきた」
「あ、僕の作品。店にいけば、もっとあるよ」
商店街のあるところへと晃司と手を繋いで歩いた。
杏奈は何度も晃司の顔を見た。
仙台牛を食べようと晃司は言うが、杏奈は普通のファミレスでいいのと答えた。それより、今夜はゆっくりできるなら、夜にと言うが杏奈は答えに窮した。最終で京都へ帰るのかということだろうか。それとも……。
「ごめんなさい、お母さんに言ってない。泊まりたいけれど、早く帰らないと」
「そうか、ごめん。だよね」
晃司の父はあの後、晃司が戻るのを待って息を引き取った。
和食の店に落ち着いたところで、晃司は自分のことをはなし始めた。
杏奈を慈しむような表情を浮かべると、
「来てくれてありがとう。今度は母が心労で入院してしまってね」
「あ、大丈夫?」
「疲労だってさ。今まで一人で看病してきて、亡くなった父のことを思うとがっくりきたのかと、医者は言ってた」
「そう、よかった」
「杏奈のお母さんは?」
「変わらずに悪い、もう見ていられない」
晃司は杏奈の手を握った。
「ねえ。この手は人形を作るためにあるんじゃないの?」
「でもね、思ったよりも借り入れが大きくて、先にそれを返済しないと。だから、薬剤師の資格を持っていたから、とりあえず、大きなドラッグストアの調剤などをしている。昔は製薬会社にいたしねえ」
「残念よね、京都に修行に来てたのに」
「親父が元気になると思っていたんだけれどね。でも京都に行けたから、杏奈にも会えた。行かなければ、今、こうしていないし」
「うん。晃司の事情も知らずに勝手なことを、ごめんなさい」
「いいんだ、何のための修行かと思う。だけど、とにかく銀行への借入金を返したら、人形の店のことも考えてみるけれど、最近はあまり買う人もいないし……」
経済的に逼迫しているのはお互い様で、口数が少なくなる。
再会を単純に喜ぶほど、二人は若くはない。先ほどまでの会いたかった気持ちは杏奈の中で、現実に打ちのめされてしぼんでしまった。
杏奈のバッグの中で、携帯電話がなり出した。
杏奈の母親の入院する病院からだった。
「あ、病院からだ」
今まで、病院から電話はなかったので、何かあったのだとすぐにわかった。その電話は急変により、危篤を告げるものだった。
「いま、用事があって地方にいます」
「どなたか、他に親族のかたは?」
「私の父に連絡を取ります、京都にいますから。私もすぐに帰ります」
杏奈の目の前から消えた晃司は、店の会計を済ませてきたようだった。
両手が震えてしまっている杏奈を強く抱きしめた晃司は、
「携帯貸して」
そういうと、杏奈の手から携帯を取り上げた。
「お父さんの番号はどれ?」
「これ」
「わかった」
杏奈の代わりに父の番号へと電話をかけた。そして、杏奈に握らせる。
「お父さん、お母さんが、危篤なの。私は今、京都にいないの。うん、地方にいるの。だから帰れない、すぐに。お父さん、お願いだから、病院へ行ってほしいの」
「わかった、すぐに行くから。おまえは落ち着いて慌てずに帰るんだ。いいな」
「ありがとう。お願い」
杏奈は辛うじて父に返事をすると、また、座り込みそうになった。
晃司はそんな杏奈を強く、今までになく強く抱きしめて、背中をさすった。
「大丈夫だ、人間は生まれた限りいつか死ぬんだ。お母さんは少し早くその日が来ることを運命として受け入れているんだよ。杏奈も僕もいつか死ぬ。だけどそれまでは、生きる、自分がどんなに嫌がっても。だから、京都へ帰ろう。僕が一緒に行くから、急ごう」
杏奈は無言で頷いた。母を置いてきたことに、恐ろしいまでの罪悪感を抱いて……。
京都駅までの間に晃司はずっと杏奈の手を握っていた。
杏奈は落ち着きを取り戻した。だが、父に何度電話しても、電話には出ない。どうして、なぜ。
晃司も無言で、首を振るだけ。
電話になぜ出ないのか、その答えを知っていたからだ。
タクシーが病院のエントランス前に到着すると、杏奈は走り出した。晃司も一緒に走ったが、病室の前で立ち止まった。
杏奈がいつものように、病室のドアを開けたときに部屋は静まりかえり、父が一人座って俯いていた。
「杏奈、少し遅かった。おまえのお母さんは逝った。眠るようにな」
顔の上の白い布はその印だった。
杏奈は母の顔を見る勇気がなかった。よりによって、自分が一人娘の自分がいないときに、力尽きるなんて。ごめんなさいと何度も言おうとしたが、声が出ない。
「杏奈、おまえがいてもいなくても、お母さんは責めやしない。私がいることも知らないし、おまえがいなかったことも知らないからな」
涙が止まらないままひざまずく。
胸の上に組んだ手を掴んで叫んだ。
「ごめんなさい、お母さん。見守れなくて。ごめんなさい」
杏奈はそのときに、自分の下腹部が強く傷むことに、焦りを感じた。
「お父さん、どうしよう。お腹が痛い。お母さんが怒っているみたい、助けて、お父さん、お腹が痛い」
父親が杏奈の名前を呼ぶ声が遠くで聞こえた。
杏奈は今までの緊張と、下腹部の激しい痛みに耐えかねて気を失ってしまった。
杏奈が目を覚ましたときに、周りには誰もいなかった。
自分が病室にいることだけが、わかっていた。
右腕に刺さった点滴の針の痛みと、下腹部の鈍い痛みと腰の怠さ。看護師が入ってくるときに、廊下で父が誰かを恫喝している声が聞こえた。めったに感情を表に出す人ではなかったのに。
「帰ってくれ……」 その先は聞こえなかった。
「あの、看護師さん。父は誰と一緒ですか?」
「旦那さん、彼氏さんですか」
「私は……」
「気分はどうですか? 残念です。流産でした、八週目でしたね、でもダメージはそんなに大きくないから、お母様の葬儀には出られますが、無理はしないでください。昨日の今日なので……。退院の許可は出ています」
「流産? 何かの間違いでは?」
「え、知らなかったの?」
「はい、そんなはずはないのですが」
「知らなかったんだ。そういうこともあるけどね。不順なほう?」
「はい。中学のときから、ずっと日が定まらなくて」
「そうか、じゃあ、これを機会にちゃんと受診してください」
杏奈はぼんやりと天井を見ていた。
まるで他人事のような、看護師と友達の話をしていたような感じだった。確実にわかっているのは、晃司がお父さんと会った。そして、流産のことで、晃司が非難されているのだろうと思っていた。
点滴は外されたので、杏奈はゆっくりと体を起こした。
母を見送るために、しっかりとしなければならない。
父が入ってきたが、杏奈は目を合わせることができなかった。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい、心配かけて」
「おまえら、親子はどうしようもないな。私がいないとどうしようもない。一人で勝手に死んでいく妻に、いい年して妊娠していることも知らずに流産する娘。教師として、情けないわ。生徒にどんな顔して説教すればいいんだ」
父が泣く顔を初めて見た。
杏奈は着替えを取りに行こうとしたが、父がロッカーから出してきた。
「鈴子さんを見送ろう、おまえがいないと、お母さんも天へ行けない」
「そうね、ごめんなさい」
「あの男には帰ってもらった、それでいいだろう。あんないい加減なやつに
二度と会うんじゃない」
「……」
杏奈は、これでお母さんからの罰は受けたと思った。
この夏は、痛いほど好きになり、失うことが多すぎて辛過ぎた。久しぶりに男の人を真剣に自分から好きになった結果が、これだ。不器用なのか、ついていないのか、そんなこともうどうでもよかった。
「お父さんがよければ、一緒に暮らさない?」
「いいよ、そういうの。おなじだろう、鈴子さんと。口うるさくて、ずっと一人でしゃべってて、わがままで、自分が一番偉いと思ってる女は、うんざりなんだよ」
母の死から二年が過ぎた。
父と三回忌を二人で終えたところで、元々住んでいた家に父がよく訪ねてくるようになった。杏奈は父が戻って来る時は、二人で食事するときは、よく話した。父との暮らしは悪いものではなかった。月のうち半分ほどは、のびのびと過ごす父は、母の写真を見て手を合わせる時だけ、とても哀しい顔をしていた。
夏がくる。
あの人と過ごした夏がまたやって来る。
悠介は月に一度母の仏前に白い花を抱えてやって来る。余った花だから気を遣うなと笑ってくるのだが、母の仏前に座ると、すぐに泣き出すので、杏奈もつられて泣いてしまう。父は、また、泣き屋が来たのか? アレは花屋だろうといつも笑っていた。それでも、帰るときはありがとうと頭を下げている。父の考えていることは良くわからない。
晃司からは一度も連絡はなかった、ラインも来ない。
父は晃司のことを何も言わないし、杏奈もあの時病院で彼に何を言ったのか、聞くことができなかった。杏奈も自分から電話したいが、父がとても酷いことを言ったのは間違いないだろうし、聞いてもきっと本当のことは言わない。
杏奈が父と同居しようと言ったのは、晃司とは会えないようにするための保険だった。晃司のことを好きだという気持ちにかわりはなかったし、いつも会いたいと思っていた。でも、流産してしまったという事実をどう受け止めたらいいのかがわからない。お互いに気を付けていたはずだが、一〇〇パーセントの避妊法はない。生理痛が酷いので、低使用量ピルを使っていたし、晃司はアレを付けていたのに、妊娠してしまった。
電話したら、声が聞けるのに。
微熱に似たあのあつい気持ちは、今の杏奈にはない。
でも会いたい気持ちはそのままに、二年が過ぎてしまった。未練、そして不甲斐ない気持ちから、杏奈は吉行人形の前を通ってみた。そして晃司が住んでいたマンションの前も……。晃司のことで、はじめて泣いた。今まで閉じ込めて、耐えてきたものがあふれ出す。会いたい、そして会わない時間を埋めたい。連絡をしなかった、もどかしい気持ちを話せたらと思う。
杏奈は商店街で夕食の買い物をするために、公園の横にスクーターを止めた。行き交う人は多くて、背中に見覚えのある茶色のシャツの男性が気になる。まさか、晃司ではない。会いたいと思う気持ちが強いから、そう思うのだろうと思い、杏奈は八百屋に入ると、野菜を選び始めた。
先ほどの男性が振り返ったことを、杏奈は知らない。
杏奈は父よりも早く帰れるようにと、夜の道を急いだ。
料理の腕はかなり上がったと自分では思う、しかし、父は味が薄いだの、油物はいらない、魚を増やせとか、文句しか言わない。
杏奈と父がわだかまりなく、暮らしていることを遺影の母は快く思ってはいないと思う。あの時のお腹の中にいた子供が産まれていたなら、一歳を過ぎた頃かと思われる。
なぜ、今こんなに強く晃司のことを強く思うのか、その理由はわからない。もう、新しい女が彼にいて、結婚したから電話がないのではないかと思ったり、邪推をしてしまう。
「おい、なんか、焦げたにおいがしているぞ」
父の声で杏奈は我に返った。
「ごめん、なすが少し焦げて」
「焦げは体に悪い、気を付けなさい。おまえも食べるんだろう。このさき、子供を産むこともあるだろう」
「そうかな」
杏奈は苦笑いしながら、焼きなすをひっくり返した。
リビングのテレビボードの上に晃司の創った松川だるまが飾ってある。
少し色あせた感じはするが、蒼はきれいに残っている。
それはちょうどあの時見た、仙台の空の色に似ている気がする。
「杏奈、土曜日にあの男が来るって。家に。それともおまえが仙台にいくか?」
「お父さん?」
「どうする、くるのを待つか、それとも行くか」
焼きなすはまた、焦げている。
了
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