これからも、今までも
中学時代に熱狂したもののなかに、YMOのページが私にはある。
今も忘れ得ぬ初恋の君(ダー)とベッドのほの明るいライトの下で読んだ文庫本の数々。いつも、あうんの呼吸で佇む愛猫。バイトをして買うのはウサギの餌と、国語辞典や英和辞典などそしてYMO の新譜のレコードなのでいくら働いてもお金は足りなかった。
そして友人の古川さんという、地味で穏やかな彼女から大阪城ホールであるコンサートに行かないかと言う誘い。大阪なんて行き方も知らない私にそんな大きな箱であるライブに行けるとは。彼女は年上の当時大学生のお姉さんがおられて、今で言う音楽のチケットを売るサイトにアクセスしてプラチナチケットを取ってくださったのだ。
それも前から11列目のど真ん中と、なんという幸運だろう。
お姉さんの顔も古川さんの顔ももう思い出せない。けれども、右の耳をPAで潰してしまって、翌日学校に行っても何も聞こえないことだけは覚えている。少し右よりだったので、細野晴臣さんが真正面におられた。
そして私の大好きな坂本龍一さんは向かって左よりだったので少し遠かった。それでも初めて見るお三人のプレイは今もはっきりと思い出すことができる。チューニングが難しい山際で深夜ラジオ番組を聴いて、それだけ焦がれたことだろう。当時は坂本さんが大島監督の映画に出演される前のことで髪の毛はカラスのように真っ黒でテクノカットがまぶしかった。高橋幸宏さんの鬼のように正確なドラムで座席には一度も座ることなく時間は過ぎた。
ダンスフロアのような大阪城ホールは男女の熱気と歓声の中、無情にも響く閉幕のブザーにアンコールを促す拍手で、なんともう一度三人とバンドメンバーさんたちが幕の前に出てきてくださって手を突き上げ、お辞儀をしてくださった。
涙が止まらず、古川さんと抱き合った大阪の夜は耳がじんじんしていて、興奮していた心臓と脳みそが眠ることを許さなかった。中学の門をくぐると彼女のクラスに行く。
「昨日は本当にありがとうね」
彼女のお姉さんが帰る時間をホールの前で待ってくださって幼い女二人を京都まで連れて帰ってくださったのだ。映画を見て時間を潰してくださったらしいと後で聞いた。
「耳、何も聞こえへんな」
「うちも」
笑ってセットリストを交換する。
お互いに会場でメモしたものに間違いがないか、確かめる。
そしてカセットにその曲をレコードから落とすのだ。
そして次の年、YMO は散開した。その散開コンサートも一緒に行き、周りの皆さんと泣いて踊った。なんでやめるの? やめないでと言う声が響く中でメンバーは最後に笑顔だった。
あれから高校に進学した夏のこと、古川さんに電話をしても不通となり、共通の友人である松本さんにたずねても、同じ返事だった。彼女は家を知っていたので、二人で行くと、表札もなければ人の住む気配もなかった。YMO を語る友は姿を消した。
今は娘とYMO について語ることができるようになった。
お互いに年を取り、メンバーのお三方も髪がすっかり白くなられた。
年齢は20歳も変わらない。愛してやまない彼らの音楽を今はスマホでいつでも聴くことができるが、ブルーレイや、CD音源でも聞くし、テレビ番組の録画も鍵をかけて消さないようにしている。
天才たちのメロウな、そしてお茶目な。
そしてかっこいいあのライブをもう一度、見せてほしいと思う。
私の青春のすべては、そこにあった。
ピアノなんか弾けない、そんな私。楽譜も読めない私だけれども、これからもずっと大好きだよ。
私は今目を患い、テレビやPC,読書に制限をかけている。
だけど、聞こえる。まだ。
時々突発難聴がやってくるし、目のオペで頭痛もあるけれど、音楽はいつもそばに。どんなときも、どんなときも。
最愛の君が私から去った時も、愛猫が虹の橋を渡った時も。
私がこの世を去るときは坂本さんのピアノ曲のCDで送ってほしいと娘には頼んである。エンディングノートにも書いた。
最後は明るく君に胸キュン。
今も、胸を焦がす曲を私たちは待っている。
坂本さんが、新しい曲を作ってくださることを。