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珈琲にまつわること

このマガジンはずっと中国茶について書いてきた。そこへ珈琲である。マガジン名はこっそり変えておいた。

コーヒーはエスプレッソ。30年以上変えていなかった哲学。カリフォルニアの大学に在学している時は、普通に手に入るコーヒーはおかわり自由のファミレスコーヒー。現在の日本のような挽きたてのコーヒーを淹れるマシンではなく、いつ作ったかもわからない大型のコーヒーメーカーで淹れたものが常識だった。色が付いただけのお湯のようなコーヒーは一言で表現すると不味い。脂っこいアメリカの食事を流し込むためには必要だけど、あえて飲みたいものではありえない。

日本を発った当時はバブル経済より少し前ではあったが、高級な喫茶店が流行の兆しを見せており、贅沢な空間で深煎りでハンドドリップで抽出されたコクと苦味のあるコーヒーを贅沢なカップや空間で味わうことを覚えた矢先、コーヒー後進国への留学。軽井沢の珈琲歌劇で飲んだブレンドを日々懐かしんだものだった。ああ、深煎りコーヒーの苦味が味わいたい、とやたら甘いコーラと薄いコーヒーの国で嘆く。そんなある日、背伸びして行った街のイタリアン・レストランで衝撃を受けた。明らかなイタリア訛りの英語を話す店主。どこかゴッド・ファーザーの映画を連想させるような店内で、食事の締めくくりに飲んだエスプレッソは衝撃的だった。豊かな香りにコクと苦味。渡米4年の間ずっと焦がれた味にようやく出会えたのだ。天から一条の光が降りてきたような錯覚を覚えた。

それからはひたすらエスプレッソ探しだ。背伸びイタリアンへ毎日行っていたら、流石にバブル真っ只中で不動産業を営む父からの送金でも賄えない。自分で淹れるか・・・しかしエスプレッソは機械がなければ淹れられない。諦めかけた時に、見つけたのだ。街角のテイクアウト・コーヒースタンドに輝くEspressoの文字。そして店内には巨大なエスプレッソマシン。今では当たり前の光景だが、1990年代前半のカリフォルニアでは奇跡だったのだ。

時は流れ帰国。レストランを経てワイン輸入業者に勤めたが、その時に2度目の衝撃が起こったのだ。社の指令。京都に行け。そこでイタリアのバローロというワインメーカーの社長でピオ・ボッファがいるので、彼の通訳として働け、と。
当時現役だった500系新幹線のぞみに乗り、京都に向かった。指定された京都ホテルのカフェで待っていたのは、どう見てもその筋の「ボス」である。おそるおそるピオ・ボッファさんですか?と尋ねるとYesの答え。ボスは恐怖心いっぱいの私の心を覗き込むと、エスプレッソが欲しいと。ただし本物のエスプレッソ以外は飲まないのでそのつもりで、と言い放つ。

オーダーしたコーヒーが到着。「本物」以外が出てきたら、そのウエイターと私は立ちどころに消されるのだろう、ピオはデミタスを受け取ると、泡立ちをチェック。満足げな表情を見せると、本当のエスプレッソの飲み方を教えてやろう、とおもむろに卓上のシュガーポットに手を伸ばした。ティースプーンで1杯、2杯、3杯。そうしておいてそのスプーンをソーサーに置くとおもむろに飲み始めた。混ぜないと沈殿してしまうよ、と言おうとした矢先に。イタリアではたっぷりの砂糖を入れて混ぜない。カップの底で溜まった砂糖をスプーンで掬って食べるのがイタリア流なんだとのこと。命拾いとともに叩き込まれたこのイタリア伊達男の習慣。以後エスプレッソを飲むときは、したり顔で本当の飲み方を教えてやろう。と相手に声をかけて煙たがれるようになった。

そんなエスプレッソ一辺倒からなぜスペシャリティ珈琲にシフトしたのかは次の記事で!


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