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舞台「もし関」閉幕記念~石田三成はなぜ勝てなかったのか?~

舞台「もしも彼女が関ヶ原で戦ったら」が無事に閉幕いたしました。
ご来場いただきました皆様、誠にありがとうございました。
舞台の余韻冷めやらぬ中ですので!

今回は、五関さんに演じていただいた星聖児扮する石田三成にフォーカスを当て、
史実における「関ヶ原の合戦」で石田三成がなぜ勝てなかったのか

その理由を深く掘り下げていきたいと思います。


そもそも石田三成ってどんな人?

石田三成は1560年に現在の滋賀県長浜市石田町でうまれました。

三成の父は石田政継。
父は浅井氏に仕えており、石田村を収める豪族でした。
母はその浅井氏家臣の娘、瑞岳院。

そんな両親のもとに生まれた三成は、
色白で大きな目をもった美少年
だったといわれています。

三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館
石田三成資料室もあります

三成は14歳で豊臣秀吉に仕えるようになり、
外交担当の事務方として奉公していました。
事務としての才能をどんどん発揮していった三成は、
戦いの場でもその才能を活かしていきます。

1583年の賤ケ岳の戦いでは、
外交戦略や、情報収集などの働きを評価され、
現在の滋賀県甲賀市にあった水口城の城主になったと伝えられています。

水口城主時代には、島左近を高給で雇ったという逸話が残っています。
豊臣秀吉に40000石の加増をしてもらったときに、
秀吉から「家臣は何人いるんだ?」と質問され、

「島左近、一人です。」

と答えたといわれています。

島左近は実力がある猛将で、石田三成のような小禄の武将に収まる人物ではありませんでした。

秀吉に「いくらで雇ったのか?」聴かれた際に、
「40000石の半分の20000石で雇いました」と答えたそうです!

島左近

秀吉が関白へ出世すると、三成も高い官位を与えられました。
さらに25歳の若さで官僚となり、豊臣政権の「五奉行」に!
司法や行政を担当し、豊臣政権の中核を担う人物となりました。

秀吉が天下統一を果たすと戦乱も収まり、
平和な時代の兆しが見え始めました。
平和な時代であるからこそ、
石田三成のような知性を武器とする武将が重要な役割を任されました。

知将三成が大きく関わった政策が、「太閤検地」です。

太閤検地の方針「7か条の誓い」では、

  • 謝礼をもらっても検地はきちんと行う

  • 主君に対して失礼なことをしない

  • 部下が謝礼をもらわないように取り計らう

  • 自分が担当するエリアは迅速かつ丁寧に検地する

  • 不心得者がいれば報告する

  • 農民に乱暴な対応をしたり、威張ったりしない

  • 村人が憎い者でも不公平な検地はしない

など、三成の真面目さや公平さなど、人柄がよく表れている方針になっています。

太閤検地の様子

その後30代で佐和山城主となり、190000石を治めた三成。
佐和山は、畿内と東国を結ぶ要衝であり、
軍事、政治、経済的に重要な地域。

「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」
と謳われていました。

しかし、佐和山の民たちは違いました。
三成は佐和山の領民想いの施策をおこない、非常に慕われていたそうです。

1592年、秀吉はいよいよ朝鮮出兵に乗り出します。
小早川隆景とともに明軍と交戦した三成。
戦況を見極めつつ、小西行長と明軍相手に和平交渉をおこないますが、交渉は決裂。
1597年に再度遠征を行うも、秀吉が死去。
三成は博多に赴き、朝鮮から撤退を指揮しました。

朝鮮出兵

この朝鮮出兵で全線で戦っていた武将たちと、
内政を担当していた三成の間に溝が生まれます。
三成は朝鮮出兵で戦火が振るわなかった大名の減封(いわゆる減棒)にかかわっており、武将たちから大きな反感をかうことになります。

このことが原因で、7人の武将が三成の暗殺を計画。
しかし、徳川家康の説得で暗殺は中止され、
三成はかろうじて佐和山城に逃げることができました。

1600年
会津で挙兵した上杉景勝討伐に家康が動きます。
これを好機と見た三成は家康討伐を西国大名に呼びかけ、挙兵します。

会津征伐から引き返してきた家康と、9月15日に関ヶ原で激突。

当初は西軍が優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れ、三成は敗走することになります。

関ヶ原の戦い

三成は現在の木之本町古橋に潜んでいるところを捉えられ、
10月1日に京都の六条河原で処刑されました。

石田三成敗北の要因

石田三成の敗北には、以下の要因が複雑に絡み合っていたと考えられています。

1. 人心掌握の失敗

石田三成は、徹底した官僚思考の持ち主でした。
真面目で実直な性格ではありましたが、
組織の論理を振りかざし、
豊臣家の命令には諸将は従うのが当然という考え方が、
コミュニケーション不足を招きました。
そして時には強引な態度として反発を買いました。

一方、徳川家康は、
その実力をもって豊臣家の権威ではなく
「実力者」
としての圧力で政権を奪取していきました。

その行動は、かつて織田家から覇権を奪い取った豊臣秀吉と同じであり、
当時の諸将にとっては受け入れやすいものでした。

その結果、関ヶ原の合戦の前段階から、
加藤清正、福島正則らの豊臣恩顧の有力大名が家康側につきました。

加藤清正
福島正則

また、三成に味方した中にも、
家康に通じている者が多数おり、
数の上では互角に見えても、
実質的には家康率いる東軍が圧倒的に有利な状況でした。

三成の最大の失敗は、
秀吉の正妻である高台院の支持を得られず、
秀吉の後継者である秀頼の母である淀君の正式な支持も得ることができず、
豊臣vs徳川
という構図を作れなかったことです。

高台院(寧々)

形式的には、反徳川連合VS徳川連合という私闘になってしまい、
大義名分を失いました。

近年の研究では、
小早川秀秋の裏切りも合戦の途中で起こったことではなく、
最初から予想されていたようです。

豊臣家の正規軍という立場でもなくなっていた西軍は、
最初から戦力的に東軍に圧倒されていたと言えるでしょう。

2. 戦術の失敗

石田三成は、戦略家としては良い着眼点を持っていましたが、
戦術的にはことごとく決断を誤りました。

上杉と呼応して、家康が上杉征伐を起こしたタイミングで挙兵し、
東軍を挟み撃ちするという戦略は良かったものの、
肝心の上杉家との連携を密にとることができず、
情報収集も不足していました。

結果的に、場当たり的な決断の連続となってしまいました。

大坂にいる東軍諸将の人質の拘束も、
細川忠興の正妻ガラシャの自害が起こるとあっさり撤回し、
伏見城の攻防戦にも手間取りました。

奇襲ともいえる挙兵であったにも関わらず、
実際に出兵を開始したのが挙兵から1ヶ月後という有様で、
家康に十分な対応期間を与えてしまいました。

劣勢を挽回するためには、
兵力を集中し、
短期間に敵に打撃を与えて戦況を有利に進めなければならないところ、
それを提案した島津義弘を退け、
結果的に島津軍の反発を招きました。

島津義久

これは、西軍の指揮系統の乱れにつながり、
戦術が機能しなくなる最大の失敗となりました。

もっとも東軍も、
本来主力であるはずの徳川秀忠軍が、
上田で真田昌幸の計略にかかり、
関ヶ原への到着が間に合わなくなるという致命的なミスがありました。

しかし、家康はあえて秀忠軍を切り捨てて決戦に挑む決断を行います。

豊臣秀忠

戦術においてスピードは最大のポイントであり、
あらゆる局面でスピード感のない西軍と比べると、
家康の強烈なリーダーシップの下にある東軍は、
すべての決断に無駄がありませんでした。

3. 時代の流れ

関ヶ原の戦いは、
戦国時代の終焉を告げる戦いでした。
秀吉亡き後、その偉業を継げる力を持っているのは、
徳川家康しかいませんでした。

戦国時代を生き抜いてきた大名たちは皆、現実主義者でした。
もちろん、石田三成を筆頭に家康に対決姿勢を見せる勢力もありましたが、大きな流れは家康の政権奪取へと傾いていました。

最大の現実主義者である家康は、
秀吉の政策をほぼ受け継ぎ、
海外進出だけを除けば、
秀吉の国家運営構想を完成させました。

その中には、三成が行った検地もありました。

4. 三成が勝つとすれば…

西軍が関ヶ原の合戦で勝利するとすれば、
それは伊達政宗の取り込みだったと考えられます。
本来は、上杉との連携で東軍を挟み撃ちにすることがこの作戦の肝でした。

しかし、肝心の上杉は東から伊達政宗の圧力を受け、
領国を守ることで精一杯になり、
東からの徳川への攻勢がまったく機能しませんでした。

もし三成が秀吉であれば、
どんな手を使っても政宗を抱き込んだに違いありません。

政宗は早くから家康とは友好関係を結んでおり、
さらには上杉とは長年対立関係にありましたが、
この一見無理とも思える外交を成功させなければ、
そもそもこの作戦は成功しません。

伊達政宗

かつて秀吉は、
本能寺の変に際して中国大返しという離れ業をやってのけましたが、
これは、それまで敵であった毛利との和睦という奇跡的な外交を成功させたからです。

理屈ではなく、人間力で無理を可能にする。

そういうことができなかった三成を責めることはできませんが、
結果としては、関ヶ原の合戦は負けるべくして負けた戦いだったように思います。

最後に

関ヶ原の合戦は、日本の歴史における大きな転換点であり、
石田三成の敗北は、時代の流れの中で必然的なものであったと言えるかもしれません。

しかし、三成の戦い方も含めて、
様々な角度からこの戦いを分析することは、
歴史の面白さを改めて感じさせてくれます。
今回の考察が、皆様の歴史への興味を深める一助となれば幸いです。

石田三成

編集:青羽ひかり

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