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秀吉に学ぶ職場でのキャリアアップ術

転職は、キャリアアップの手段としては、あたりまえの時代になってきました。しかし誰もが転職で成功するわけではなく、かえって残念なケースになってしまうことも少なくありません。
今回は、そんな転職でのキャリアアップを大成功させ、まさに大成功をおさめた歴史上の人物、豊臣秀吉の転職キャリアアップ術を紹介したいと思います。


秀吉の出自から松下家に仕えるまで

秀吉の出自は一般的に中村の百姓の出ということになっていますが、実のところは諸説があり、よくわかってはいません。本人は「天皇の落とし胤」であったなどと吹聴していたようですが、実際のところは身分の低い庶民の出であったことは間違いないように思われます。
秀吉は若くして、実家を離れ、行商などをしていたようです。

その後、秀吉は、今川氏の陪臣である松下之綱に仕えることになります。おそらく15歳くらいのことかと思われます。現代風に言えば、最初の正社員採用ということになります。松下家では、台所周りの仕事をしていたようですが、同僚から疎んじられ、それを見かねた主人の之綱が、金を渡して、放逐したと伝えられています。(退職金を払ってあげて、退職勧告したということでしょう)
之綱は秀吉のことをそれなりに評価していたようですが、保守的な松下家において、秀吉のような身分の低い者の活躍の場はなかったのでしょう。秀吉は之綱に感謝していたようで、彼が天下を取ったあと、徳川家康につかえていた之綱に16000石を与えて、その恩に報いています。


松下之綱

織田家に転職・最初は管理畑

松下家を離れた秀吉が次に仕えたのが、織田家です。秀吉、17歳の頃です。初めての転職となりました。
秀吉は、当主である織田信長の身の回りの世話をする小者として採用されます。そこで、信長に認められた秀吉は、台所奉行として任用されます。ようやく秀吉が組織の中で認められた瞬間です。そして、そのキャリアは管理畑のスタートでした。台所奉行は今の組織でいえば総務部のようなところです。とはいえ、そこの部長に任命されたのですから、異例の出世といえるでしょう。その後、秀吉は清州城の破損にあたって普請奉行にも登用されます。いずれも、計画性と実行能力が必要な仕事です。
信長と秀吉といえば、「草履を胸で温める」逸話が有名ですが、それが本当かどうかはともかく、信長は、そばに仕えていた秀吉を見て、先を見通す力とそれをちゃんと計画を立て管理する能力があるということを認めたのでしょう。


織田信長

武将として頭角を現す・花形部署への異動

しかしながら、武士の組織にあってなんといっても花形部署は、武将です。今で言えばバリバリの営業本部です。なにせこちらは、結果が出れば出世は思いのままです。しかしながら、通常の大名家であれば、武将は、歴とした家柄であり、かつ古くからそこに自分の勢力を持つ者でなければなれませんでした。当時の大名家は、その土地の豪族の集合体だったからです。現代でいえば、強烈な学閥社会ともいえるでしょうか。
秀吉が最初に勤めた松下家が所属する今川氏がまさにこの代表例で、氏素性がわからぬ者が武将に抜擢されることなどありえませんでした。

秀吉にとって、ラッキーだったのは、当時の信長は家中の家臣団と対立しており、自分自身の家臣団を能力主義で構築していこうとしていたところだったことです。信長は、荒木村重、明智光秀、滝川一益など、得体のしれない者を次々と能力主義で登用していきます。

秀吉は、台所奉行・普請奉行の実績を認められ、念願叶って武将に配置転換されます。ここが秀吉の本当の意味でのキャリアアップの分岐点でした。


明智光秀

卓越したコミュニケーション能力と交渉能力を期待された

秀吉が、武将として名が世に現れたのは、美濃の斎藤龍興との戦いにおいてです。1565年、秀吉28歳の頃。織田家に転職して10年目のことです。秀吉の任務は、斎藤側についている有力豪族に対する寝返り工作でした。ここで秀吉は、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門の織田方への寝返りを成功させています。
信長は、戦を指揮するという能力に期待したのではなく、秀吉の卓越したコミュニケーション能力と交渉能力に期待したのです。そして、秀吉は見事にその期待に応えました。おそらくは台所奉行や普請奉行を通して、人の動かし方の機微を秀吉が知っていることを信長は見抜いていたのでしょう。

信長は苛烈なイメージがありますが、実際は、「いかに戦わずに勝利をおさめるか」ということに手間暇を惜しまない武将でした。戦う時には確実に勝つという状況をつくることが大事と考えていました。
今風に言うと、完璧な計画を作成し、なおかつその実行にあたっては、修正を繰り返す忍耐力を持っていた人物です。いわゆるPDCAですね。

上司の期待を見抜く力

一方で信長は、予想できない状況に柔軟に対応できる「機動力」も部下に求めました。こちらは、昔ながらの武将タイプです。合戦という予想不能な状況で適切な判断を行い、局所的な戦いで優勢をつくりだせる人物です。織田家の中では、のちに秀吉が天下を争う柴田勝家が筆頭です。織田軍団は比較的、この「機動型」の人材が多く、秀吉のようなPDCAタイプは希少性がありました。

秀吉が有能だったのは、信長に期待された能力を、自分の中で磨き上げたことです。まず、そこを大事にして、自分のキャリアの道は、上司の期待に答えれば必ずアップすると信じたことです。

現代の組織ではキャリアというと、部署や職種をどうするか?ということを最初から考えてしまう人が多いと思います。
それは、いわば、秀吉が最初から「武将」を希望するというようなものです。そうではなく、その組織の中で自分がどんな能力を認められ、期待されているのかを知り、それを磨き上げることが大事ということです。そうすれば、おのずから「道」は開けます。

20代の秀吉が、自分のキャリアを切り開いた方法は、現代の若いビジネスマンにも参考になると思います。

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眞邊明人の歴史とオカルト

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今回は、日本最古の女王「卑弥呼」について取り上げました。

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