頑張れと頑張ったの話
back numberのボーカルの清水依与吏さんの言葉で「頑張れと頑張ったはセットなんだ。頑張れは使いやすくて気軽に使ってしまうけどももっと"頑張った"をちゃんと伝えられる人でありたい。」
という言葉がありました。
とても考えさせられるものだなと感じました。
何気なく日常的に使う言葉。同じ言葉でも誰が言うか、いつ言うかによって感じ方が変わる。
たくさんの言葉の中で刃物になってしまうような言葉もたくさんあります。「消えろ」とか「うざい」とか・・・。これらの言葉は当然使ってはいけないこと。使わない方がいい言葉とわかっています。
「頑張れ」は決して刃物になるような言葉ではないはずです。少なくとも使っている側はそんなつもりではない。応援しているわけですし。
受け取り側がもういっぱいいっぱいになっているときに言ってしまったら?
十分頑張っているよ。これ以上何をしろって言うんや。って思っているときに言ってしまうと・・・。
時として、その言葉は刃物になることがある。
似たようなことは「頑張れ」だけでなく他の言葉でも起きる。
自分の経験でも何てことのない一言でかなりダメージを負ってしまったこともある。それがきっかけで失った人間関係もある。
でも、されただけでなくきっと自分が加害者側になってしまっていることもたくさんあるはず。
もしかしたら気づいていないだけで加害者になっていることの方が多いのかもしれない。
そう思うと言葉を発することも怖くなりますね。
「頑張った」という言葉について
「頑張った」は頑張れと違ってその過程を労うもしくは認める言葉であると私は考えます。
「頑張ったな」という言葉をかけられるときは結果だけでなく、多かれ少なかれその過程を少しでも知っている状況といえます。
結果を出す。結果を出す。結果を出す。と頑張っていても報われないことがあります。報われないことの方が多いかもしれません。
結果が出ないと給料が上がらなかったり、希望する進路に進めなかったり。他人と比べて劣っているように見えたり、第1希望から妥協して決めた進路に負い目を感じたり。
結果ばかりを見てしまいます。他人も自分も。だってどんな過程であったとしても結果がでていないのだから。何も変わっていないのだから。むしろ評価?自分の価値が下がったのだから。
どんな結果になったとしてもそんなもので価値なんて決められない。変わらない。でも結果が出なかったことでそんな風に思ってしまう。
過程を認める「頑張った」という言葉は認めるなんて言葉を使うと偉そうに聞こえてしまうけれども、みんなの見ない部分に気づく。目を向けるということなのだと思います。
「頑張れ」と伝えることは悪いことではありません。
依与吏さんも言っていましたが「頑張れ」と伝えた人には「頑張ったね」という言葉まで責任を持って伝えることが大切なんだと思います。
頑張れ、頑張ったね。
そんなことをしっかり伝えられる人間になれるかな。なりたいな。