身体の履歴書
人間の身体には、
これまでの人生で起こった
様々な
「きずあと」
残されています。
この「きずあと」は
「傷跡」
「傷痕」
「傷あと」
「キズアト」
表現されているとおり、
文字通り
身体に
刻み付けられております。
皮膚の傷だったり、
筋肉の傷だったり、
靭帯の傷だったり、
骨の傷だったり、
神経の傷だったり、
内臓の傷だったり、
遺伝の傷だったり、
病気の傷だったり、
事故の傷だったり、
心の傷だったり、
精神の傷だったり、
種々雑多な物事に対する
「傷」が存在します。
その傷は何の傷跡?
私達、
治療家は
その傷跡を
追っていくことで
原因を
探索していきます。
でも、
第三者が
傷跡を追っていくには
限界があります。
だからこそ
本人の傷に対する
履歴書が
大事になってきます。
昔の記憶の中に、
治療のヒントが
隠されているからです。
身体を「みる」とは、
「見る」
「診る」
「観る」
「視る」
に分類される。
患者さんの身体をみる場合は、
「診る」
「視る」
を使います。
「診る」とは、
1)調べる
2)検査する
3)測定する
「診察」
(問診、視診、触診、打診、脈診、聴診など)
をすること。
「視る」とは、
1)行動をみる
2)言動をみる
3)感情をみる
をすること。
身体の履歴を知るには、
患者さんの身体を
「診る」と「視る」から
始めなければなりません。
私たちが
患者さんを
治療をしていると
無意識に
指先から電流のような
ショックが
飛び込んでくる時が
必ずあります。
触診した部位は、
確かに
指先で反応したのですが、
問診票には
何も記入されておりませんでした。
そんな時に
「この部分は
以前
何か痛めたことはありませんか?」
と質問します。
すると
「そういえば・・・・子供の時に・・・」
といった具合に
患者さんの記憶が蘇ってきて、
その内容に沿って
治療を進めていくと、
現在痛めている部分との
相関関係が改善されて、
回復傾向に
落ち着くような
事例に
よく遭遇致します。
修行時代、
師匠に
教えてもらったことが
ありました。
それは、
「患者の身体の記憶を
感じられて初めて一人前だ」
という言葉です。
最近は、
この言葉の重要性を
日々感じております。
人間には
脳システムの中に
「ゲートコントロール理論」
というがあります。
痛みの刺激①を、
別な刺激②で
置き換えることで
脳が刺激①を
認識しなくなる
理論ですが、
この理論が邪魔をして、
記憶の中に
昔の古い負傷部位の痛みに対して
認識のフタを閉めて、
新しい痛みのみを
認識してしまいます。
原因は
古い痛みなのに、
新しい痛みのみを
追求するため
治りにくくなる
ジレンマに陥るのは
そんな理由が多いです。
古い痛みの記憶に
根本的な治療のヒントが
隠されている。
だから
問診票には
病歴を書く欄が
あります。
患者さんの方は、
正確に
治療歴を
記入出来るように
メモを
持ち歩いておられたり、
お薬手帳を
全て持って来られたり、
主治医の診断書を
持って来られたり、
レントゲン写真、
CT画像
MRI画像などを
持って来られる場合も
あります。
このように
過去の治療遍歴を
持って来られる
患者さんの場合、
治療のヒントを
得られるので
治療家としての腕を振るい、
少しでも改善出来るよう
最善を尽くします。
一番難しい患者さんは、
病歴を隠す方達です。
当然、
問診票に
病歴は
「特に無し」
書いてありますし、
痛い所に
○印とチェックしか
書いてないし、
何をして欲しいのか?
さえ書いていない
患者さん方もおられます。
病歴を隠すような
患者さんの場合は、
治療家が
触って
診て、
検査して、
紹介状を
医療機関に書いて
精密検査をしてもらってから
本格的な治療をすることになりますが、
時間がかかるのが問題で
事実、
「何度通っても治らない」
と諦めてしまう
患者さん方が多いようです。
しかも
触診や通常治療時に
指先の異常な感覚に
身体の中にある
履歴書が反応するので、
そこから
更に
病歴を探らなければ
なりません。
治療家のジレンマが、
そこから始まりますし、
患者さんの意向が
分からなくなるのも
そこからです。
何を治したいのか?
症状を取るだけなのか?
病気を治したいのか?
障害を治したいのか?
事故、手術で喪失した機能を取り戻したいのか?
10代、20代に出来ていた事を
40〜80代でも出来るようにしたいのか?
「何を目的にしていますか?」
となります。
手遅れになるケースも
当然多いです。
だからこそ
自分の身体の履歴書を作る機会ですから
問診票の記入だけでも
努力をしてもらいたいですね。
そうすれば、
そこから
更に
治療を進めることが
可能になるし、
アドバイスを
的確に答えることも
可能になります。