いい本を届けたい
いい本があったら、それを届けることがしたい。いい本は埋もれていく。インターネットが発達し、古い情報には確かにアクセスしやすくなった。Amazonのサービスを利用すれば、他の人が購入した本や、おすすめの本を教えてくれる。最近ではTikTokで紹介された筒井康隆の『残像に口紅を』が3万部以上売れたという話もきく。古書との思わぬ出会いがSNSによって生まれる時代である。
しかし、それでもいい本は埋もれていく。いい本だけど選ばれない本というのが、確実に存在するからだ。Amazonで買われていない本は、Amazonのアルゴリズムからすり抜けてしまう。SNSはどうだろうか。おそらく、地味な本はバズらない。そんなバズらない地味な本を扱ってくれるひとが、果たしてどれくらいいるだろうか。
インターネットの外の世界では、売れる売れないにかかわらず、少数のひとのためにこそ本を書くひとたちがいる。しみじみ思い出すのは、荒川洋治『夜のある町で』に収録されている「横光利一の村」という一篇である。
荒川洋治が横光利一の「夜の靴」を読み、「「夜の靴」に描かれた村が、どんなところか。いまはどうなっているか知ってみたく」なり、横光利一が戦時中に疎開していた山形県鶴岡市西目を訪ねるという話。訪ねるにあたり、その村と横光利一について書かれた書籍を挙げ、次のように書く。
工藤さんのも村上さん[引用者注:書籍の執筆者]のもまず一般の人には無用の文献ということになるが、いまのようにそのことを深く知りたいというときには俄然、何にもまさる灯明となる。こういう本や文章は実はとてもたいせつなものなのだ。
「一般の人には無用の文献」。横光利一について詳しく知りたい、と思う人以外には無用の文献でしかないもの。しかし、それでも深く知りたいという人もいるのだ。ある日、偶然「夜の靴」を読み、横光利一のことを知りたくて居ても立っても居られなくなってしまう人。きっと少ないけれども、そんな人がいるかもしれない。必要とするひとがいるはずだと想像し、そのひとのために文章を書く。文学はそういう場所だった。
インターネットの世界にこそ、こういった人がいるべきだと思う。わたしは、これまで本を届けようとしたひとたちのおかげで、いい本にたくさん出会えた。面白い本に出会えた時の喜びは深い。だからわたしは、noteで同じことをやってみたいと思う。そのきっかけになれたら、嬉しいと思う。