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描写を読み飛ばすのはあなたが悪いわけではない(かもしれない) ジャン・リカルドゥー『言葉と小説』
ジャン・リカルドゥーの邦訳は現在2冊ほど世に出ている。1969年『言葉と小説』と1974年『小説のテクスト』である。どちらも野村英夫訳で、紀伊國屋書店から現代文芸評論叢書として出版された。『言葉と小説』は著者の考えが詰まった理論編、『小説のテクスト』はその理論の実践編と言えるかもしれない。今回は『言葉と小説』を取り上げる。
ジャン・リカルドゥーは1960年代から言論活動・創作活動に精力的に取り組んだ小説家であり、ヌーヴォー・ロマンと呼ばれるフランスで起こった前衛的・実験的な作風の潮流を擁護したことでも有名である。
本書のテーマは、一般的に考えられている小説の物語内容と表現の関係を覆していくことである。よく創作において、作者の頭のなかに描きたい物語があって原稿用紙に書き写していくことで作品が生まれると考える向きがある。そういった考え方の場合、頭の中にある文章と実際に書く文章は、物質かそうでないかの違いだけで、同じものと考えられる。
しかし、リカルドゥーはそのような考え方を否定する。むしろ、表現したい内容から出発するのではなく、表現方法が内容を生む事態が小説を書くうえで起こっているという。彼は表現と内容の関係を、叙述と虚構として明確に区別すべきと主張し、示すことと創り出すことの違いを説明する。例えば、アンドレ・ジッドの『日記』のなかからその例を挙げている。
また床につこうとして、わたしはふと、寝台の真正面にある洋服箪笥の
天辺から、錦蛇が鎌首をもたげているのに気がついたが、すぐにそれが三
角の鉄具にすぎないことがわかった。
いささか凝ったところのあるこの叙述は、いわば錯覚を実現してみせているのであり、それで読者の方でも、つい釣られて錯覚してしまう。ところが、もしジッドがこれを
わたしは寝ようとするとき、ある錯覚に捉われた。一瞬のあいだだが、
洋服箪笥の天辺にでていた三角の鉄具が、錦蛇の鎌首にみえたのだった。
というように提出してみたならば、そうした平板な叙述は、ただ事を言うだけに留まってしまっていただろう。
この例からわかるのは、書く順番によってそれぞれ異なる虚構(物語)を生み出しているということである。
リカルドゥーの思想で面白いのは、このように小説を原理的に探求したことであると思う。
彼は叙述と虚構の厳密な区別という前提をもって、創造と再現の問題、隠喩の問題、虚構における時間の問題などを次々と考察していく。ここからは、筆者が特に興味深かった、意味と描写の問題について取り上げてみよう。
「創造的な描写――意味との競争」と題された評論では、明示的な意味と描写の関係を論じている。この評論を読めば、小説の描写を読み飛ばしてしまうのは、もしかしたらあなたが悪いわけではない、と言えるようになるかもしれない。
小説に出てくる描写を読み飛ばしてしまうというのは、昔からよく聞く話だ。風景描写を退屈と感じてしまう若い読者が増えている、といった話も聞く。しかし、それは本当に読者のせいなのだろうか、という問題提起としてこの評論を読み直すことができる。
リカルドゥーは、明示的な意味と描写の関係をいくつかのパターンとして分析する。この明示的な意味とは、作者あるいは語り手が意図したい意味といってもいい。例えば、金持ちの息子を登場させ、いかに金持ちであるかを表現するために、服装や装飾品を丹念に描写する、といったことである。
しかし、これはいわば、つまらない描写である。なぜなら、意図がわかれば、もう読む必要がないからだ。このような描写をどれだけ積み重ねても、意図した意味以上に情報量が増えることはない。だから、読者によって読み飛ばされてしまう。
リカルドゥーは嘆いている。「描写というものを気まぐれにゆだねて顧みない小説が、あまりにも多過ぎる」と。では、リカルドゥーが創造的と考える描写とは何か?
それは形式の方針によって表現されるものだという。つまり意味から出発せずに書くということである。
リカルドゥーはその例にクロード・オリエの『梭』やロブ=グリエの『嫉妬』を例に挙げる。要約すれば、クロード・オリエにおいては、パノラマ手法という描写によって対象が選ぶことで、意味からの出発を避けている。あるいはロブ=グリエにおいては、意味を一切書かず、ただひたすら描写することで、結果的に作中人物の情念の高まりを表現しえたということになる。
この考え方を敷衍すると、最近の作品では千葉雅也『デッドライン』などが思い浮かぶ。ある大学院生の日常を描いた作品だが、そこでの描写というものが、物語的な意味のかたまりになる前に、描写を閉じる、その繰り返しからなっている。いわば形式の方針によって作品は構成される。そのため、意味に回収されずに、描写の手触りが残り、それが作品の豊かさにつながっている。
リカルドゥーは、こうしたことを、描写と意味の競争関係として捉えた。それまで意味に従属していた描写が、対等となり、そこに緊張した関係が生まれる。そこから今までにない、新しいものが創り出される。そう考えたのである。
リカルドゥーを読むと、今なお新しい学びがあるが、しかし、こうした刺激的な考察も行き過ぎると、細部の分析が肥大化し、テクストのオタクになってしまう。オタクが悪いと言いたいのではない。バランスを取らないと、多くの人に開かれた批評にならなくなる危険性がある、ということである。実際、この理論の実践である『小説のテクスト』を読んだが、私はついていけなかった。こうした側面も存在する。
けれども、創作の方法として考えた場合、たくさんのヒントを与えてくれる。使えるものはなんでも使う。そうした姿勢で向き合った方がちょうどいい距離が保てる、そんな本である。