資本主義と万博 鹿島茂『パリ万国博覧会 サン=シモンの鉄の夢』
たとえば、白いワイシャツを手に取ってみる。とくにこれを買おうと決めてきたわけではない。なんとなくショッピングモールに寄ってみただけだ。そばにある姿見と自分の身体を比べながら、サイズや色の感じを確かめる。ワイシャツの脇腹をひとなでして、肌触りなんかも想像してみる。素材が気になって、表示ラベルを探しながら、そういえば、こないだ買った黒のパンツと合うかもしれない。そんなことを思いながら、もう買う気になっていて、値段もちょうどいい、なんてこともしっかり確認してから買い物かごに商品をいれる。それはなんでもない、昼下がりのショッピングモールの光景であるだろう。
しかし、この当たり前とされている商品を手に取る、という行為がじつは人類の歴史においては最近のことで、現在の資本主義・消費社会の発展に大きく貢献しているとは、あまり考えてみる人はいないだろう。まして、このフォーマットは万国博覧会とつながりが深いなどと結び付けて考えることもない。
鹿島茂『パリ万国博覧会 サン=シモンの鉄の夢』は、まさにパリ万国博覧会を扱った本である。しかし、それは、過去にはこんな風に展示された、といったことを紹介するだけの本ではない。万博理念の形成を丹念に追い、やがて万国博覧会が資本主義の発展に深くかかわっていることを明らかにする。
パリにおいて万国博覧会は1855年に開催されて以来、1937年まで開催され、大規模なもの、小規模なものも含めると、戦前までで合計8回ほど開催されている。
こうした博覧会の先駆けとなるのが1789年の内国博覧会である。フランソワ・ド・シャヌトーというフランス革命当時に総裁政府の内務大臣を務めた人物がフランスの産業復興のため、企画したといわれている。
この内国博覧会には、その後の万国博覧会の特徴が出揃っているという。
とくに②の「展示」というのが非常に重要である。そもそも、前近代社会では、商品は自由に見れるものではなかった。商品は生活の必要を満たすためだけに存在していたので、展示されるものではなく、店主が店の奥から持ってきて、そこでようやく客は商品を手に取ることができた。そして、商品を持ってきてしまうと、もう買わずに店を出ることはできないので、顧客は店主の持ってきたものを買うことになる。それはほとんど自由のない売り買いであった。
そのため、商品を自由に見れる「展示」という方法に人々は驚き、魅了されていった。
この「展示」という方法に目をつけ、パリの資本主義を発展させたのが、サン=シモン主義たちであった。
サン=シモン主義とは、19世紀のフランスで生まれた社会主義思想である。創始者であるサン=シモンは、貴族の生まれだが、アメリカ独立戦争の義勇兵に志願するなど、変わった経歴をもつ。彼が社会主義思想に取り組み始めたのは、フランスの恐怖政治時代にリュクサンブール宮殿に投獄された際に、シャルルマーニュが夢枕に立ち、「我が子よ、哲学者としてのおまえの成功は、軍人、政治家としての私の成功に匹敵するであろう」という啓示を受け、自分の使命は社会の改革者となることだと自覚したのがきっかけだったという。
彼の思想を要約すると、以下になる。
彼の思想は、産業の発展による、世俗的な幸福を肯定するものだった。徐々に同時代の人々に影響を与え、弟子たちも増え、組織が形成されるようになる。そして、彼の死後は、弟子たちによって理論化され、ついにサン=シモン教会を発足するに至った。
経済学者のミシェル・シュヴァリエも、サン=シモンに影響を受けた人物で、彼とナポレオン三世の思惑が重なることで、「展示」の祭典であるパリ万博が実現する。
ミシェル・シュヴァリエは、エコール・ポリテクニック(理工科学校)を首席で卒業した大変な秀才だが、自分の高い能力に見合った就職先が国から斡旋されず、苦労していた。そんな矢先に友人にサン=シモン主義の集まりに呼ばれたことがきっかけで、影響されることになった。
彼は、1851年にナポレオン三世によるクーデターが起こるとこれを支持。ナポレオン三世もミシェル・シュヴァリエを国務院参事官に任命し、ナポレオン三世の右腕となっていく。ミシェル・シュヴァリエはナポレオン三世のもとでサン=シモン主義的な経済政策を自由に打ち出すことができるようになったのだった。
ミシェル・シュヴァリエがやりたかったことは、まず鉄道網の整備だった。鉄道がなければ短時間に、かつ大量に原材料を工場に運ぶことができず、産業の発展も停滞せざるをえないのだが、当時、フランスでは鉄道の普及は遅れていた。ミシェル・シュヴァリエはアメリカなど他国ですでに鉄道がインフラとなり、産業化が進んでいるのを目の当たりにしていたので、危機感を抱いていた。
また、自由貿易主義への政策転換も必要だった。当時のフランスは保護貿易の路線を採用していたが、それでは企業努力が生まれず、その結果、競争力の停滞と国民への低価格な商品の供給がなされないと考えていた。
そして、鉄道があっても、商品をつくる設備がなければ産業は発展しない。そこで銀行をつくり、企業に融資ができるような体制の推進もなされた。
ナポレオン三世は、盤石な政治体制をつくりあげるために、経済発展と国民生活の改善を必要としていたので、ミシェル・シュヴァリエと意見が合致し、鉄道網の整備、銀行の設立の提案を受け入れた。だが、まだこれでは社会改造に必要なものが欠けていた。それは国民の産業意識の変革であった。
どんなに機械設備が輸入されても、国民が関心を持たなければ、技術革新は進まない。鉄道があっても、銀行があっても、国民自身がそれを望むことが必要であった。
このような課題に直面し、ミシェル・シュヴァリエが考えたのが万国博覧会であった。
当時、ロンドン万国博覧会が開催され、世界中に衝撃を与えていた。ミシェル・シュヴァリエ自身もこの万博には参加しており、そこで見た産業機械、とりわけ実際に駆動している機関車は、彼を震撼させた。そして、当然、機関車に驚いたのは彼だけではなく、見学にきた人々も同じだった。
こうして、実物を展示することが、啓蒙につながることを肌で感じ取ったミシェル・シュヴァリエは、万国博覧会を構想するにいたったのである。
その後、ミシェル・シュヴァリエはパリの万国博覧会を計画し、ナポレオン三世の協力のもと、ついに1855年に開催にこぎ着けた。入場者数は516万人。数多くの商品が展示され、大規模な事物教育も実現できた。フランスの産業界では、これをきっかけに徹底した産業革命の必要性が認知され、人力からの脱却へと移行していく。また、この博覧会ではあらゆるものが展示され、なかでも衣食住の民衆用製品の展示は、多くの観客を集めた。そこで彼ら彼女らは商品を見る楽しみを覚え、商品と客の関係性が変化していく。出展者においても、この展示というフォーマットが欲望を喚起する装置として機能することを学び、やがてこのフォーマットからデパートなど生まれることにもなり、私たちの資本主義・消費社会を支えることになる。万国博覧会は「近代のパラダイムを変えてしまうほどの意味」を持っていた。
近代と万国博覧会は切っても切れない関係にある。私たちが商品を手に取ることについて遡ると、パリの万国博覧会に行きつくのである。