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正しきから揚げ かわい@浜松

これから引用するのは、私が2016年秋に4泊5日の瀬戸内旅行を行い、その帰途、「秋の乗り放題パス」を使って倉敷から鈍行で府中本町に戻る際、途中下車して浜松で食事をしたときの記事です。Facebookには載せてありましたが、あらためて。

夕食をとるため、浜松で下車。

浜松はさすがに日本を代表する工業都市だけあって、興味をそそられる店だらけである。僕の好物である寂れすぎた商店街なんかもちゃんとある。

この街で生きた人たちは、今はどこでどうしているだろうか。

今回の旅の最後の食事をとることにした定食屋「かわい」は、浜松駅から徒歩10分ほどの町外れにある。

もとより、観光客の来るところではない。ごく一般的な定食屋さんである。が、僕は旅先でこそはこういう店で食べたいとつねづね思っている。

大荷物を抱えた見慣れぬ男の入店に、ご主人は少し戸惑っていた。見るからに観光客だからなあ。ご主人はこざっぱりした初老というには少し上の男性で、接客を担当。調理は奥さんが奥のキッチンで行っているようだ。

縞ほっけ定食と、鳥から揚げをたのむ。これにもご主人の反応が若干遅れた。私が店に入る前からいらした男性客も、その後に来たお二人も、常連客はみなさんご高齢で、定食にサイドメニューをつける人はあまりいないのだろう。でも、私の体躯を見て、ああ、そういう人なんだなと思っていただけたと思う。


先に出てきたから揚げを見ての感想は「正しい」の一言だ。食べてみてもその感想は変わらない。正しい。そう、こういうのを鳥のから揚げというのだ。ファストフードのチェーン店や、スーパーマーケットで、「鳥のから揚げ」として売られているもの。あれは本当のから揚げではない。ではそのようなものがなぜ「から揚げ」として世に出されているのか。それは、端的に言えば、我々消費者がそれを許容しているからである。から揚げとは本来呼べないものを「から揚げ」と言われ、まあ、そう言われれば仕方ないね。この程度のことで目くじら立てるのも大人げなくて面倒だし、と思ってしまう。かくいう私もその一人だ。

が、そうやって適当に流しているうちに、現実はどんどん切り下げられていく。ヒトの社会とはそういう構造になっているのだ。自称「現実主義者」のほとんどは、単に「現実」のdiscountを祝福しているに過ぎない。

この店のから揚げは奇を衒わない。当たり前の大きさの、当たり前の軟らかさの肉を、当たり前の美味しさに味つけして提供している。この場合の「当たり前」とは何か?自分と同じ人間である客に提供して、対価を得る価値のあるものとして「当たり前」という意味である。


縞ほっけも同様であった。この身の厚さ、ジューシーさは、縞ほっけとして「当たり前」なのだ。ほっけの場合、「ほっけもどき」との差がとくに酷いことを我々は知っている。そう、知っているのだ。

繰り返そう。現実が酷くなるのは、能動的にであれ、受動的にであれ、意識的にであれ、無意識的にであれ、我々がそれを許容するからである。そうして現実は切り下げられる。これは誰が悪いのではない。私たちの社会とは、そのようにできているのだ。

付け合わせの「茄子味噌」も「ポテサラ」も実に旨い。食べながら僕は、「正しい。これは正しい。」と心の中で繰り返した。

旅の最後に相応しい、すばらしい店でした。

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