往くぜ極楽、何度でも! 空也上人と六波羅蜜寺展@東京国立博物館
偶像……崇拝!!!!!
東京国立博物館で空也上人と六波羅蜜寺展鑑賞。
私は比喩ではなくガチの空也上人信者である。どれほどのガチ信者かというと、六波羅蜜寺から「御篤信之証」というプラスチックカードを交付されるほどのガチぶりである(今回の展覧会の関連グッズではございません)。そのためか、『朝日新聞』の懸賞で無料招待券が当たるという僥倖に恵まれた。
故に、今回の展示は楽しみにしていた。が、一方で、空也上人立像は上洛する度に訪ねている。だから、正直に言えば、今回は挨拶程度のつもりだった。あづまぢの道のはてにようこそ、とその程度で済ませるつもりだった。
もちろん、ガチ信者として一定の敬意は示すつもりで、普段はあまり借りることのない音声ガイドも借りたりした。
が、展示室に入り、まずいきなり重要文化財・地蔵菩薩立像のあまりの尊さに撃たれた。この像は、11世紀、つまりは空也の生きた時代より1世紀後のもので、平安時代の大仏師定朝の作。あの『今昔物語集』にも造立の際のエピソードが載っているという。像は女性の長い髪を片手に持っている。これは、貧しい女性が亡き母の供養をしてくれた僧侶に母の髪をお布施として渡したところ、後日果たして地蔵菩薩像がその髪を持っていたというエピソードに基づくという。この話は、私は像を見たあとで知ったわけだが、そんなエピソードを知らずとも、像の発する限りない慈悲に感応せぬものはいないのではないか。
重要文化財・四天王立像だって六波羅で何度も見ているはずだ。が、このうち3体が、六波羅蜜寺の本尊である国宝・木像十一面観音立像(秘仏ゆえに今展覧会は不参加)と同時に、空也の生前に造られたものであるという事実は見逃していた。全くの不覚。ということは、空也はこれらの像の前であの「南無阿弥陀仏」の声を発した、これらの像は、その声を実際に浴びたということになる。なんと畏れ多いことか。京都・六波羅といえば、源平の争乱や足利高氏(尊氏)の六波羅探題攻略など、いくつもの試練を受けてきたはずだ。その度に周囲の支援を受けて復興し、多くの文化財を現代に伝えているのは、やはり常に弱者に寄り添い、貴賤貧富を全く問うことなく厚い信仰を集める「完璧な男」、空也の寺であるが故なのだろう。だからこそこの私も、21世紀に六波羅蜜寺に細々とした寄進を続けている。鎌倉時代末に戦乱で焼け落ちた六波羅蜜寺復興のため、室町幕府第2代将軍で尊氏の子足利義詮の呼びかけにより、多くの守護大名が寄進したというが、私もそれに連なるものである。
そしてあの重要文化財・空也上人立像。恐るべきリアリティ。「南無阿弥陀仏」の名号が、一文字一文字阿弥陀如来の姿となったというのは、ただの伝承であるはずがない。当時平安京の市に集い、「市聖」空也に帰依した人々には、主観的にはそう見えたはずだ。「南無阿弥陀仏」の六字は、即ち現世に苦渋するとりわけ弱い立場の人々に救いをもたらす阿弥陀如来そのものなのだ。やっぱり六波羅蜜寺の宝物館で見るのと東京国立博物館の展示として見るのとでは、違いますね。僕は放送大学で「博物館展示論」を2年ほど前に学んだのだが、実地での確認としてたいへん勉強になりました。
最後に、空也上人立像を作った康勝の父で、古今に比類なき大仏師運慶とその長男湛慶の坐像。そして、六波羅蜜寺所蔵の文化財の中では空也上人立像と並んで有名な伝平清盛坐像。運慶の、後に時代を超えた絶対的名声を得ることを見越したような余裕の笑みと、その後継者湛慶の生真面目な表情は好対照。そして伝平清盛坐像のあの微笑み。運慶坐像の快活な笑みとは明らかに異なる、多数の一族同輩を踏みしだいて登極し、斜陽の中で死んだ権力者の、おそらくは最晩年の姿。「伝」なのでなかなか大きく扱われることはないのだが、この3つの坐像も永遠に見ていられる作品であった。
いやすばらしい。さすがと言うほかない。この展示の後六波羅蜜寺にできる新しい宝物館「令和館」の建築費を若干寄進しております。今秋には参る予定。たいへん楽しみ。
往くぜ極楽、何度でも!