私を変えてくれた人

人は偉大です。
何が?
気持ちを言葉で伝えられる事が出来るから、偉大です。
自分の中の情報だけでは改善不可能な事があります。
そんな時に、周りの人の考え方を知ると違うアプローチが見えてきます。

私がそれに気付いたきっかけの人物、中井吉英教授をご紹介します。


私は、19歳で声が出なくなりました。
まず、耳鼻咽喉科に行きました。
次は内科に行きました。
更に耳鼻咽喉科を紹介され、心療内科を紹介されました。
この時点で、病院嫌いだ!と思います。

その当時、精神科という言葉が段々と減ってきていて、代わりに心療内科はかなり増えてきていました。
いまいち精神科と心療内科の違いも分からずに、紹介された医院に行ったのです。

「病名何にする?」
突如言われた言葉に混乱しました。
病気に定義はないのか?と。

あまりに理解が出来なかった為、今度は口コミで良いと言われている心療内科に行きました。

カウンセリングの時間、おもむろにドクターが電話を始めます。
次の休日に鈴鹿サーキットのチケットがとれるか、が気がかりだったようです。

「え、仕事中じゃないの?」
私はもう呆れていました。
百歩譲って、私から怒りの感情やら何やらを引き出して本心を探ろうとしてたとしても、ここにはもう来るまいと思いました。

さらに口コミを調べて、心療内科に通います。
そこは、薬局のような場所でした。
不安が酷い?→抗不安薬出す
声が出ない?→筋弛緩剤を出す
1ヶ月薬を服用すれば、腎臓と肝臓に負担がないか血液検査をする。
その繰り返しです。

私は特に、筋弛緩剤を出す事に不満でした。
声が出るようにする為に動けなくするっておかしくない?しかも、声出ないままだし。


今なら分かります。
口コミは、公的な援助を受けやすくなる病院を良しとしていたのです。
当時の鬱は怠け病の意識が強く、公然と会社を休めたり、生活保護を受けたりしにくかったのです。
鬱は、脳の病気なのに。
単なる気分障害じゃないのに。


どんどん、私は心療内科への信用を無くしてしまったのです。

しかし、その辺の町医者を見ただけで心療内科を語ってはいけない、とも感じました。

だから、関西で心療内科の第一人者と言われる中井教授の診察を受けてから考えようと思いました。


中井教授は当時、関西医大附属滝井病院にいらっしゃいました。
完全予約制の上に電話予約でしたので、声の出ない私は手紙を書きました。
予約は2ヶ月程先になりました。

待合室で、リスカ跡が生々しい女の子に話しかけられます。
待ち時間は長かったので色々話を聞いたのですが、その子は神経性大腸炎で、緊張するとトイレにいかないといけなくなる為、どんどん人前に出られなくなってしまったそうです。

そうこうするうちに、診察の順番がきます。

まずは、問診です。

そして、触診です。

視診も行いました。

さらに、レントゲン検査とエコー検査

今までの心療内科とまるで違います。


不思議に思い、尋ねました。

中井教授は
「心療内科は内科ってつくでしょう?まず、内科的に何も問題が無いかをチェックしないと心の問題だと限定できない。だから、心療内科はジェネラリストじゃないといけないんだよ。さっき話していた女の子は神経性大腸炎だったでしょう。彼女の悩みを解決するためには、心にアプローチする方法と、病気にアプローチする方法がある。それができるのが心療内科医なんだよ。」

感動しました。

この人は本物のドクターだと思いました。


なので、私の本心を打ち明けました。

「私は、声が出ない事を無理矢理治したくない。きっと体が悲鳴をあげているのに、よくわからないままに治したら、別の症状がでてくる可能性が高い。私は、それが1番怖い」

中井教授はエコーを見ながら答えました。

「そういう考え方ができるなら、診察の必要は無い。ただ、ストレスで膵炎を起こしかけているからそれの薬は出させてくれ。そして、声が出ない事自体がストレスになったら、また来てください。」

膵臓なんて見にくい臓器の小さな異変を自覚症状も無しに見つけ出す。この圧倒的な内科医としての経験と実力をそこに見つけました。


私は、この方なら信頼しようと決めました。
そして、声が出ない事がストレスになっていないかを自分の判断基準に加えました。


それ以後は中井教授にお会いする事はありませんでしたが、忘れられない方です。
色々なドクターはいるけれど、日本の医療を牽引しているドクターは素晴らしい人なんだと信じられました。


その後に出会う耳鼻咽喉科の先生もそうですが、学び続けるドクターの言う事は絶対に聞いた方が良いなと思ったのでした。

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