見出し画像

[秋帽子文庫]蔵書より_秩序が不断の破壊によってもたらされる件_その2

こんにちは。毎日を楽しんでいますか?
私は今、結構楽しんでいると思います。予定通りにいくことはほとんどありませんが、でも、有難いことに、なんとか前進しているという手ごたえは得ています。
先日も、風呂場で一つ、懸案を解決するアイディアが浮かびました。わかってみれば簡単なことですが、この突破に至るまで、2カ月以上を要しました。あきらめない、無理に進めない、行き詰ったらもりもり食べる、の3カ条が勝利の鍵です。
おかげさまで、仕事運は好調ですが、恋愛運と健康運に黄信号が灯っています。ちと、もりもりが過ぎたようです。秋帽子です。

さて、前回は、『生物と無生物のあいだ』をご紹介しました。生物とは何か、科学に基づいて考えを深めさせてくれる名著です。しかし、一点、残念なところがあります。
それは、「死」を扱っていないところです。
「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」
素晴らしい着眼点です。
つまりそれは、静的な不死というものが、ありえない・生命の本質に反するということです。絶え間ない更新にも、いつか終わりが来る。これは、欠陥や弱点ではなく、これを組み込んだプログラムだからこそ、生命は光輝くことができるのだと思います。
したがって、生物を論ずるには、死についても語られないと、どうも話がまとまらない気がします。それも、科学が生命の謎の奥深くに光を当てた、西暦2020年の現代に生きる我々の実感できるレベルにおいてです。

いったい、生命について考えるときに、死を無視することができるでしょうか。科学的に生物をとらえる際には、この点がネックとなります。
大学時代、医学部の先生から法医学の講義を受けた身としては不思議ですが、科学者は、研究のためにたくさんの死体を分析解剖しても、そこに見ているのは、あくまで生命活動のほう。死というものは、どうも波長が合わないようなのです。死という状態を、直接観測できないせいでしょうか。

そこで、考察をさらに推し進めるには、科学ではなく文化的・文学的なアプローチによる必要があります。
今回ご紹介するのは、菅浩江『五人姉妹』という短編集です。
本書には、9篇の作品が収められています。
父の会社が開発した人工臓器の実験台となった女性が、そのスペアとして育てられたクローンたちを食卓に招き、亡父の思い出を確かめるという、表題作の『五人姉妹』。
疫病により、主人である人類を失った人工知能「中枢」が、介護されるロボットと介護するロボットを作り出して寂しさを紛らわせる『KAIGOの夜』。
謎の物理現象によってISSにいる恋人と「ライブ」で話せなくなり、今この瞬間、相手が何をしているのか、どんな気持ちか、生きているのか死んでいるのかも知ることができなくなった女性が、猫のパラドックスに思いをはせる『箱の中の猫』、等々。
劇的な事態を、等身大で冷静な語り口で伝える作品群は、ちょっと浮世離れした舞台設定を超えて、現代社会や、読者自身の抱える問題についても考えさせてくれます。秋の穏やかな日に、時間を忘れて読みふけりたい一冊といえます。

特に、当文庫で本書を所蔵するうえで、重要な作品と考えているのが、第7篇『賤の小田巻』(しずのおだまき)です。
大衆演劇一座の座長であった父が、「AIターミナル」に入所したと聞かされた息子が、面会に行って、AIで補正された父の映像と言葉を交わし、父子のわだかまりを超えて、その思いを受け止めるという物語です。
AIターミナルというのは、終身保養施設、つまり一種の老人ホームです。変わっているのは、人工知能により補正された、その人のイメージを保存してくれるVR施設であること。
入所者は、元気なころのイメージに包まれた、仮想の世界で暮らすことができます。また、入所者の人格を学習したAIは、面会者など外部の人間に対し、ときに本人の生死を伏せて、理想のイメージを演じてみせることもあります。

AIによって補正された入所者の姿は、もちろん現実そのものではありません。しかし、全くのウソというわけでもない。単なる記録映像のように、正確だが完全に「死んだ」人物が機械的に上映されるのでもない。何かしらの「真」(まこと)を背景にした、フィクションなのです。
私はここに、「死を含んだ生」の、現代的な形があると思います。
生きた人間は常に変化するため、その一瞬の輝きを永遠に記録するのは、とても難しいことです。ファウスト博士のように、「時間よとまれ」と願ってしまったら、生身の人間は、人生の綱渡りから転げ落ちて、死を迎えるしかありません。
しかし、AIターミナルのように、生物を、無生物である人工知能が補完したらどうでしょうか。
作品で描かれた、親族でも見分けがつかないくらいに人物の全体像を再現するAIは、まだ存在していません。
とはいえ、プリクラの高度な写真補正を見れば、生き生きとした遊び心を忘れることなく、自己を少しだけ理想化しながら、なおかつ真実の自分であるような「生きた」イメージを創り出すことは、十分に可能でしょう。

おそらく、日々更新される原子の粒を一つ一つ正確に記録するのとは違ったやり方で、生物が、永遠に生きるもう一つの自分を創ることは、十分に可能なはずです。
それは、ミクロに見れば、人工物によって置き換えられた、虚構でありながらも、長い時の試練を超えて、単純で「正確」な再現記録以上に、その思いの真実を伝えてくれるものになるのかもしれません。
これを実現するのに必要なのは、その生物を理解し、その思いを忠実に引き継いでくれる管理者です。

本作では、父とAIの「合作」である老役者の映像は、義経を失い鎌倉の舞台で踊る静御前を演じながら、息子に対し、生前には言葉に出来なかった「真」を伝えます。
作り物だから、芸術だから、永遠に表し続けることのできる感謝の気持ち。男性が女性を演ずるというフィクションの世界で、思いを託した言葉は、こうつづられます。

---以下、引用---
繰り返し謡う世の 深き恵みぞありがたき
深き恵みぞ ありがたき……
---引用終わり---

二度と戻らない日々の輝きを、悔やむのではなく、「ありがたい」と受け取る気持ち。
この境地に至った者は、自らの命に避けがたい死を組み込みつつ、そのうえで、永遠に生きる何かを残すことができるのだと思います。

「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」
これが生物の真実だとしたら、
壊れること、失われることは、決して悪いことではないといえます。
重要なのは、それがどのような「秩序」かということです。生物は一般にそのようなことを気にせず、自然の秩序に沿った美を生み出しますが、我々はヒトです。進化の中で前頭葉を肥大化させるうちに自己意識を獲得し、人生に価値や目的を必要とするようになった、「考える」生物です。
自分がどのような秩序を生み出すのか、人間はそのことに関心を持たざるを得ません。誤った秩序を繰り返し生み出し続ける場所は、死後も魂を捕らえ続ける地獄となります。

個人であれ、組織であれ、人間は意思によって、自己の行動を選択することができると、私は考えています。
「深き恵み」にこだわることなく、表面的な正しさ、誠実さを追い求めて、自然で、一切虚飾のない率直さに生きるのもよい。それはそれで、清々しい生き方です。
しかし、一度美しいものに目を奪われてしまった者は、決して、それだけでは満足できません。地の底に埋まる鉱物の輝きに魅せられた人間は、危険を承知で、暗い坑道を掘り進まずにいられないのです。
私は穴を掘る人生を選ぶ、その底で見つかるものを、ありがたく感謝して受け取るために。

『賤の小田巻』は、そんな考えを持つ者に、一つの救いのイメージを提示してくれる作品です。
選んだ道をしっかり歩き続けることで、死後も尊重される何かを残せるという夢。それも、うっかり気が緩んだ箇所はAIの補正付きで。うん、ちょっと安心しますね。

ちょっと話が長くなりました。ここらで、一旦休憩にしましょう(休憩大好き)。
次回は、フィクションにおける「絶え間なく壊す」行為につき、もう少し掘り下げてみたいと思います。

2020年9月14日
秋帽子

〔所蔵品情報〕SF短編集、大衆芸能、生と死
著者:菅浩江(すが ひろえ)
ハヤカワ文庫JA ス-1-3
ISBN4-15-030777-6
2005年

30周年で六角形に!?深まる秘密が謎を呼びます。秋帽子です。A hexagon for the 30th anniversary! A deepening secret calls for a mystery. Thank you for your kindness.