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エフとキャベツの帽子_3.師の知られざる恋バナ

『金字塔』特別編 エフとキャベツの帽子
 秋帽子
(前回「2.山羊もおだてりゃ川を渡る」より続く / 第1回はこちら

3.師の知られざる恋バナ

 新聞社のヘリコプターが見えなくなると、二人は会話を再開した。何の話だっけ…そうだ、東川が、浩一くんのプロジェクトを直接手伝ってくれない理由だ。
「何か他に、やりたいことがあるのかもね。」エフは考えた。もしかすると、それは、浩一くんのプランと相容れない何かに繋がっているのかもしれない。
「そうね。東川さんには、確かにやりたいことがあるわ。」
 恵庭さんによれば、東川は一度だけ、本物の恋をした。
 相手は美しい《出題者》だ。いや、元々は、全く容姿で目立つような人ではなかった。東川が彼女を見つけ、彼女がその視線に気が付いた時から、花の蕾が開き、やがて満開となるように、ぐんぐんと美しくなっていったのだった。
 《出題者》である彼女の、地上での姿は「見つけられない女」だった。しかし、東川は、彼女が姿を現す前から、薄々その存在を感じ取っていた。彼は、他人には見えないものを発見する名人なのだ。とはいえ、まさか、彼女が望んで自分の仲間になるとは思っていなかった。だから、彼女との出会いは、東川にとって、大きな驚きを伴う「ギフト」だった。
「彼女が私たちの前に現れたとき、“神様が贈り物をくれる”ってことは、本当にあるんだと思ったね。」あるとき、東川はそのように語ったことがある。
 二人は何年かの間、一緒にいられた。だが、穏やかな時間を過ごせたのはほんの短期間で、残りの大半は、様々な試練の連続だったという。結局、彼女は逃げ去るように、東川の前から姿を消した。その後の東川の人生はすべて、彼女の最高の相棒になるために費やされているのだ。
 エフは恵庭さんに尋ねた。
「東川さんは、その人を追いかけなかったんですか?」
「何か、約束があるみたいね。東川さんは、『向こうはとっくに忘れているだろう』と言っていたけど。」
 相手が忘れているからといって、勝手に約束をないがしろにするのは、東川の流儀ではない。とはいえ、一日たりとも忘れることのない相手のことである。放っておくことはできない。彼は、想い人の背中を追いかける代わりに、彼女のために、そして自分自身の未来の幸福のために、別なことをやり始めた。
 それは、無謀とも思える試みだった。東川は、《塔》を探索する人々から情報を得て、長期的な基盤を作り始めた。将来、《塔》の支配者たち、特に《首席出題者》トマルダと対立するような事態になったときでも、彼女が帰ってくることのできる場所を用意するために。
 どの位以前から、東川がこの挑戦を始めたのかはわからない。恵庭さんが出会った時、彼は既に静かに、穏やかに、遙か遠くの世界への旅を始めていた。英雄になるためではない。全ては、愛する人が、安心して帰ってこられる「ホーム」を用意するためだ。彼女を見つけることができたのは、自分ただ一人なのだから。
 たとえば、あなたがこれから迷宮に向かう探索者だとして、まず何から準備を始めるだろうか。情報集めは、もちろん必要だ。しかし、終わりのない作業でもある。その他に、まずやるべきことは何だろう。パーティーを組む仲間を求めて、「ギルガメッシュの酒場」の扉を開けるか。装備品を買いそろえるため、「ボルタック商店」を訪れるか。休息場所を確保するため、「冒険者の宿屋」に一室を借りるか。
 東川は、まず「城」を建て始めた。情報を集め、仲間を招き、装備品を保管し、休息もできる拠点を、それぞれの作業に着手するのと同時に用意したのだ。
 最初は修行に出た。小さなベンチャー企業で経営の実務を学び、事業主として組織を運営していくために必要な事柄を習得した。
 やがて開いた仕事場は、小さな一部屋だった。蔵書を並べ、鍵の掛かる戸棚と、しっかりした作業机を置いた。何人かの友人が訪れたが、その部屋が何のために用意されたものか、見抜く者はいなかった(実を言うと、東川の「運命の人」の名前は、部屋の一角に大きく記されていたのだが)。東川のことを気に入って支えてくれる人は絶えなかったものの(逆説的だが、誰とも付き合わない人には、独立開業などできはしない)、仲間集めは極めて慎重に進めた。そのせいで、何年もの間、一人旅が続いた。最初の同志が生まれたのは、東川が探索者たちの間でその名を知られるようになって、しばらく経ってからのことだ。
 やがて、探索者ネットワークが整備されるにあたり、東川も重要な貢献をした。しかし、彼自身はそこに依存せず、我が道を進んだ。彼のゴールは、《塔》への到達ではなく、その先、「運命の人」と自分の人生が再び合流するであろう段階に設定されていたからだ。
 探索の途中で、実は《塔》の幹部だった「藤さん」こと藤管長の裏切りが発覚し、ネットワークが崩壊しても、東川は揺るがなかった。仲間も装備も休息場所も失わなかった。最初に歩み始める時に、城を築くことから始めたからだ。
 和して同ぜず、信じて頼らず。自己の基盤を築き、心から頑張れる仕事に徹するからこそ、他人の夢も尊重することができる。敵と共に歩むことすらできる。
 一日たりとも忘れることのない想い人がいる。その背中を追いかけることはしない。その代わりに、彼女のために、そして自分自身の未来の幸福のために、東川がやり始めたのは、そういうことだった。
「そうやって、始まったんだよ。」
 恵庭さんは、しみじみと語った。
 その後、当初の小さな一室は、書斎と中庭を備える一軒家になった。今、恵庭さんは東川の書斎にいて、師匠の留守を預かっている。恵庭さんも、自分の追うべき背中を見つけたのだ。いつの日か、彼女自身の運命に巡り合うことを願って。

(「4.コンピューターレクチャー・ティータイム」に続く)
※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは、一切関係がありません。

30周年で六角形に!?深まる秘密が謎を呼びます。秋帽子です。A hexagon for the 30th anniversary! A deepening secret calls for a mystery. Thank you for your kindness.