物語る力
1-1 序章
みなさん方はこれまでの人生の中で「物語」を書いたことはあるでしょうか? 作文や読書感想文なら書いたことがあるという人は多いでしょうが、自分で物語を書いてみた人はそれほど多くはないかもしれません。学校では作文や読書感想文を課題にすることはあっても、「物語」を書くことはめったに課題にしないのです。そればかりか、学校では「物語」を書く方法について全く教えようとしません。ですから、物語を書くというのは、よほど強い興味と意志がなければ成し遂げられないことなのです。
しかし、だからといって物語を書くということが一部の人たちだけに存在するのではありません。物語を作ることは本体すべての人にとって必要なものであり、一人ひとりにとってなくてはならないものでした。それは無限に広がる宇宙と、その意志と一体化し、私たちの心をこの上なく満たしてくれるものだったのです。残念ながら、現代の多くの人たちは、そうした広大な宇宙との結びつきを失っています。そしてその結果、まるで息を吸っても息苦しさが消えないような苦しみを背負うことになっているのです。
これから私が語ることは、現代では失われた「物語る力」についてです。一度は失われたその力を再び取り戻すことで、みなさん方の心がより健やかで穏やかなものになることを願います。
1-2 物語の起源と意味
みなさん方は「物語」というものをテレビや小説といったものを通して目にしていることでしょう。そして物語とは、空想上の世界を作り上げて、人の心を楽しませてくれるものだと認識しているかもしれません。たしかに物語というのは、私たちの現実世界の枠を超えて、途方もなく広大な世界を垣間見せてくれます。物語はそうした意味で、私たちの世界を豊かなものにしてくれるものだといえそうです。しかし、ここではもっと古い時代に逆上って、物語の起源から、その本当の意味と役割を明らかにしていきましょう。
今から何千、何万年も昔の頃、現代では「太古」と呼ばれている時代では、物語は「呪術」と一体化したものでした。それは神聖な儀式の場を設けた上で、天から言葉を受け取ることだったのです。そこでは私たちを取り巻く宇宙の秘密と私たち自身の起源について語られていました。私たちの祖先はその内容を忘れまいと、代々語り継いできたのです。
しかし、私たちが文明を築き、魂の営みよりも「知性」を重んじるようになってから、かつて行われていた神聖な儀式と営みは忘れ去られました。そして「物語」は、宇宙の偉大なる叡智と分離し、今日考えられるようなストーリー性だけを内包したものになってしまったのです。
今日、私たちは「物語」を個人が生み出したものと考え、それは人間の想像力によって、創造的な営みの産物として考えます。しかし、それは本来、個人ではなく、宇宙の意志によってすでに創造されていたものであり、人間はそれを受け取っていただけに過ぎません。そしてそれは想像上の仮想世界ではなく、全く別の意味で「現実」(リアル)を写しだす行為でもあったのです。
唯物論的な考え方に支配されている現代人は、これまで述べてきたことは到底受け入れることはできないでしょう。目に見える物的証拠がない限り、信じることができないという気持ちは私にもよく分かります。しかし、この現代において、小説家や漫画家などを目指しながら、納得できる「物語」をうまく生み出すことができない人がたくさんいるのはなぜでしょうか? 才能や努力といった言葉だけで片付けられそうな問題ですが、私なら物語の起源とその役割をふまえて、こう答えるでしょう。
「あなたが、あなた自身の力だけで、何かを生み出そうとしている限り、あなたが望むような「物語」は決して生まれないでしょう。それは本来あなたの意志によって創造されるものではなく、無限なる宇宙の意志によって導かれ、示されるものなのです。」と。
私たちが自分自身だけの力で優れた作品を生み出せると考えるのは、実に愚かなことです。私たちにできるのは、自分の意志に関係なく、天から示される言葉を待ち、それを適切な時期に受け取ることなのです。
1-3 物語を書くための準備
誤解されないように、少々付け加えておけば、それは決して「才能」を必要とすることではありません。特別な才能を持つ一部の人間たちだけが成し遂げられることではなく、誰もが平等にその力を持っているのです。ただし、はるかなる宇宙の意志と結びつき、神聖な言葉を受け取るためには、それ相当の「準備」が必要です。
受け取った言葉を通して「物語」を書いていくためにはやはり「言葉」を多く知らなければなりません。そしてその言葉を蓄えるだけではなく、その言葉を血の通ったものとして使いこなすことが必要です。なぜなら、私たちが天から受け取る言葉は、私たちの使う言葉とは全く別のものであり、それを適切な言葉を使って、いわば「翻訳」する必要があるからです。
数多くの言葉を知り、それを使いことなすことは、受け取ったものをうまく翻訳する上でなくてはならない技術であるといえるでしょう。そういう意味で、読書をしたり、外国語を翻訳したりすることはとても重要なことです。
また、それらとは全く別の準備として、体を健康で活力のある状態にしておくことも必要です。私たちの心(魂)は、あまりにも崇高な世界に触れると、とたんにその精力を奪われてしまいます。あまりにも長い時間に渡ってその世界に接していれば、精神の崩壊を招く危険性は十分にあります。そしてその危険を回避するためには、弱った精神を支える強い肉体が必要なのです。精神と肉体は全く別々のものではなく、密接に関係しています。肉体を鍛えることで精神は鍛えられ、強靭な負荷がかかった場合でも、十分に耐える力が宿ります。
以上のような「準備」をした人は、ある程度「物語」を書く準備が整っているといえるでしょう。私がここで申し上げたかったのは、「物語」を書くためには特別な「才能」が必要なのではなく、「準備」が必要であるということです。何の努力もせずにただ天からの啓示を待つのは愚かなことです。偉大なる宇宙の意志は正しい不断の努力を続けたものにだけ語りかけます。それは私たちに平等に与えられた天からの「ギフト」(贈り物)なのです。
1-4 物語を書く意味
みなさん方の中には夢で見たことが現実になるという不思議な体験をしたことのある人がいることでしょう。常識で考えるなら夢は現実とは全く関係のないもので、現実の世界には起こり得ません。しかし、不思議なことにこの現実の世界では夢で見たことがそのまま再現されることがあるのです。そのことを突き詰めて考えるなら、「夢」とは完全に仮想のものではなく、現実の側面を持っているものだといえるでしょう。
「物語」もまたそうした夢と似た側面を持っています。みなさん方が何気なく書いたセリフは、かつてこの広大な宇宙の星々の中で語られたものかもしれません。そして、そのセリフを発した人もそのセリフを聞いている人も、私たちの人知が及ばないところで、実際に生きていた人たちなのかも知れません。彼らは私たちとは全く異なる場所で、そして全く異なる時代の中で生きながらも、私たちと同じように感じ、考え、愛し、悩み、苦しみながら生きています。不思議なことに、私たちは物語を書くことを通して彼らとつながります。そしてあたかも彼らと一体化したかのように、様々なことを実際に体験するのです。
私たちはあるときは主人公になり、またあるときには主人公をとり囲む人物の一人一人になります。そしてまたあるときには、海や空や風、太陽、大地といった自然の産物にすらなり得ます。いうなれば、私たちは彼らが存在する「世界」そのものになっているのです。
物語を書くとは、このように世界を外から俯瞰することではなく、私たちと何らかのつながりを持った人たちが存在する「世界」そのものになることです。私たちは彼らに手を差しのべることをせず、ただそこで起こることを共に体験するのです。
夢とは違い、私たちはその体験を決して忘れることがありません。それは彼らと自分だけが知っている特別な体験であり、魂そのものに刻まれた記憶です。その記憶は今から何千、何万年前に生きた人たちのものであるかもしれませんし、この広大な宇宙のどこかにいる人間以外の者がもつ記憶なのかもしれません。
本来出会うはずのない両者が時間と空間の壁を超えて、同じ体験を共有する。物語を書くとは、そのような奇跡をこの現実世界で起こすことです。そしてその体験の中で、私たちは決してこの広大な宇宙の中で孤独な存在ではないことを知るのです。
まだ一度も物語を書いたことのない人がいるのなら、どうかこの後でペンをとってみてください。みなさん方が書く物語にはかつて生きた人の心が宿っています。それは私たちと同じように愛し、悩み、苦しみながらも生き続けてきた人のものです。そしてその歩みをたどることで、この広大な宇宙もよりいっそう輝きを放つものになるのです。
一つの物語は一つの星の輝きに等しいものです。どうかあなた自身の物語で、自分の心の内を、そしてこの広大な宇宙全体の中を、輝きに満ちたものにしていってください。