月は欠損?
マドモアゼル愛先生の見解によると、
人は、月によって与えられた能力は、子どもが大人のマネをしたものであり、自身で考え、判断した能力とは違う、本物ではない。
としています。
何らかの理由により、培った(植え付けられた)見せかけの能力こそが本当の自分であると信じこませ、そこにつなぎ止めるのが月の働きである。と。
7歳までのうちに獲得した能力によって作られた自分が本物の自分であり、その能力があたかも『得意である』かのように思い続け、自分ではないものを「本当の自分」と勘違いしたまま生涯を終えていく。と。
確かに、あの頃(幼少期)の私は、母親が仕事でいない寂しさを埋めるように、誤魔化すようにお手伝いをしていました。
純粋に褒められたかったのもあるんでしょう。
私にとってお手伝いは「逃げ場」だったようです。
毎日のように母と父、父と祖母
それぞれが仲違いしているのを見るのが本当に苦しかった。
母が仕事で時々泊まりがあることも悲しかったし寂しかった。
でも、祖母は「○○しなきゃないんだ」「○○してはダメだ」と色々うるさくてキライだったし、
父のことも、すぐ怒るし、いつでも機嫌が悪いし、母をいじめてるように思っていたから、「敵」のように思っていた。
タバコの匂いもけむりも全部無理。だけどやめない。
だから父もキライだった。
だから、寂しくて仕方ない小学1年生くらいの私の心は、どこにも行き場がなかった。
だから、『感じない』という選択を取ることにして、お手伝いに逃げた。
逃げるしかなかったんだな。
いかに早く終わらせるか。
いかに早くキレイに終わらせるか。
どれだけのことが自分でできるか。
そこに意識を向けることで、氣を紛らわしてきたんだ。
そうするしか私の心を守れなかった。
でも、おかげで、時間を考えながら、全体の動きを見ながら、流れを考えながら、仕事を進めるスキルは上がった。
だから、『欠損』と言われると、これまでの私すべてを否定されたように感じて、受け入れたくなかった。
今でも、受け入れ難いと感じる部分もある。
でもそうかと思えば、「確かにあの時の私はこうすることでしか心を守れなかった。心を見ないように時間やルール、やるべきことに意識を向けていくことで、淡々と日々のタスクをこなし、1日を終わらせる。それでいいと思っていた。けど、思えば虚しさが残っていたから、ただ淡々と目の前のタスクをこなすだけの生き方は、本当に望む生き方ではなかったんだ」という氣持ちもある。
そういう視点で見ると、『月は欠損』にも納得がいく部分もある。
それを続けていても、本当に望む生き方にはならなかったんだろう。
でも、いつの間にか、時間内に、優先順位を決めて、規則に従って機械のように動くこと。
得意なんだけど、疲れていたみたい。
実際、結婚する少し前には、「私、何やってるんだろう…」って思って仕事中に体が動かなくなるということもあったな。
給料がいいのはわかっているけど、病棟で働くことに、もう意識も向かない。
収入のために週5で働くこともできなくなった。
自分の時間も必要だなと思って週4に減らしたけど、それすらしんどくて、今は週2で働くことを自分に許せるようになった。
というか、妊娠して、初めてつわりがあって、体調が優れなくて仕事を減らさざるを得なくて週2の働き方にシフトする流れになったんだけれども。
それくらい、私は月のステージで培ったスキルで生きることに耐えられなくなってきていたんだ。
でも、それでいい。
今まで得意としてきたことに違和感を感じて、それを手放す流れになるということは、魂の望む生き方にシフトしつつあるということだから。