走馬灯
2023年1月2日。
NHKの「最後の講義」という番組をみた。
「今日が人生最後の日だったら何を語るか」をテーマに講義を行うという内容で、講師は「みうらじゅん」だった。
これがとても面白い話だった。
特に印象に残ったのは、日記を盗みした母親の話だ。
少年時代のみうら氏は、日記を本棚の後ろに隠していたらしい。ある日、日記の場所が変わっていることに気づいて、母親が盗み見していたことを悟ったのだとか。
普通は赤面するところを、みうら氏は母親を読者と考えた。読者がいることを意識して日記を書いたという。
みうら氏は日記に理想の自分を盛って書くことで読者に応えた。
曰く、自分を盛ることで、それに近づけるのではないかと考えたのだ。
人はいずれ死ぬようで、その際に走馬灯をみるらしい。
この走馬灯までも盛ることで、いい人生だと思えるのではないかという。
講義の最後に、みうら氏が作った、盛った走馬灯をみんなで鑑賞する。
走っている白い馬の映像の後、スターウォーズのテーマが流れ、冬の故郷、乳を飲む赤子の自分、満点のテスト、してもいない海外留学の卒業式で帽子を投げるシーン、勤めてもいない会社での営業成績(グラフ)と続いていき、そして最後にはエンドロールが流れる。
これを見ればいい人生だったと思えるのでは無いかとみうら氏はいう。
実に面白い考え方だと思った。
講義の途中で、「人は何も無いところから生まれ、死んだらまた無になる」というようなことを言っていたと思う。
つまりは、どうせ死ぬのであれば、死ぬ時に自分が満足していれば良いのだ。
私の6歳になる息子は、私から見れば空想の中で生きている。
よく、息子の空想の話を聞かされることがあるが、彼にとってはまだ空想ではなく、現実なのかもしれない。
思い返せばかつて、私も同じだった。
元々、人は皆、自分の世界で生きているのだろう。
いつしか空想の世界が、現実として具現化できないことを知り、親や他人と比較することを覚えてしまう。
しかし、だからといって、自分の世界が現実に近づくだけで、生きているのは自分の世界であることに変わりないのではないか。
たとえそれが盛った人生であっても、死ぬときには嘘か本当かなんて、自分の世界の中では些細なことかもしれない。
そう考えると幾分、死生観も明るくなる。
この雑文も、読者がいることを意識して書いていこうと思った。
そういえば、この番組は1月3日の0時40分から放送なので、1月2日の出来事では無いのだけど、私の世界ではまだ1月2日なのである。
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