パミール旅行記12 〜ホログ2日目 宿移動、結婚式〜
タジキスタン共和国ゴルノ・バダフシャン自治州州都ホログの初日は無事に過ぎ、現地の知人とも会うことができた。二日目は、宿の移動と合わせて町の再散策、また午後には結婚式に出席してみる予定である。
(前回の話および記事一覧)
宿の移動
2022年8月14日日曜日。
この日は、ドゥシャンベでお世話になったAさんの従兄弟の結婚式があり、当初はAさんと一緒に参加する予定だった。しかし、Aさんはパミールに来ることができなかったため、私一人でAさんの分まで参加する予定である。
それとは別に、この日は宿を一時的に移動することを計画していた。現在の宿が名もない安宿であるのに対し、移動先はキヴェカス(Kivekas)という名前の良さそうな感じのホテルである。お値段もそれなりにするので、何泊かしてまた今の宿に戻る予定である。
朝は、宿の前のカフェで朝食を取り、その後キヴェカス・ホテルへと向かうことにした。まずはいったんキヴェカス・ホテルに滞在可能かを聞きに行き、それから昨日の対岸の山川の道を通って今の宿に戻り、キヴェカス・ホテルに滞在できる場合は荷物を持って移動である。普通に二度手間だが、ホログの町を散策することも目的なので、どちらかというと散策途中にキヴェカス・ホテルに一度寄る、といった感じだ。
キヴェカス・ホテルは思ったより遠く感じたが、ホログ国立大学の横の道を入ったところで無事に発見することができた。ホテルのすぐ横には、その少し手前に、「Badakhshan Persia」という名前の、看板にフラワシ(ゾロアスター教のシンボル)やチェ・ゲバラの描かれている写真屋(?)があった。写真屋の詳細は不明である。
キヴェカス将軍
キヴェカス・ホテルの名称は、19世紀にパミールを含む中央アジア地域を征服したロシア軍のキヴェカス将軍から取られたものである。当時、パミールはブハラ・アミール国やアフガニスタンのドゥッラーニー朝などのイスマーイール派を異端視するスンニ派勢力から過酷な圧迫を受けており、そのような状況に終止符を打ったキヴェカス将軍は解放者として今なお尊敬されているという。
それにしても、キヴェカスとはロシア人らしからぬ名前である。漠然と「ファーストネームかな?」とも思っていたが(それでもロシア人っぽくないが)、帰国後改めて調べてみたところによると、キヴェカス将軍はフルネームをカールロ・エドヴァルド・キヴェカス(キヴェカスが姓)といい、当時ロシア領だったフィンランド出身のフィンランド人。ウズベク語、キルギス語、タジク語、そしてシュグニー語がペラペラだったという。恐らくは、自らも帝政ロシアの被支配民族の出身であるのでその悲哀をよく知り、征服地の民にも深い同情と親しみを持ち、それ故にそれらの言語や文化にも精通していたのではないだろうか。いずれにせよ、パミールに興味がありシュグニー語を学習中の私としては、大先輩にあたる存在と言える。
キヴェカス将軍は、ロシア革命による帝政ロシア崩壊後後は独立した祖国フィンランドに戻って国防分野に貢献し、1940年に73歳で逝去。お墓はフィンランドのハメーンリンナ市にあるという。フィンランドに行く機会があったらキヴェカス将軍のお墓も訪ねてみたい。
グント川南岸再散策
キヴェカス・ホテルでは、ホログの某アメリカ系文化施設のTシャツを着た娘さんが受付をしてくれた。名前しか知らないが個人的に気になっている施設なので、そのことについても聞いてみたいと思ったが、例によって私のコミュニケーション力不足で何も話せないままになってしまった。
宿泊のほうは、火曜日は空いていないが日月の2日は宿泊可能とのことなので、その2日宿泊することにした。1〜2時間で荷物を持って戻ると伝え、予定どおりグント川南岸の、昨日歩いた山側の道を歩くことにした。
川側に遮るもののない場所から、再度ジャマーアトハーナとホログの街を眺め、その後、パンジ川の対岸のアフガニスタン側シュグナーン地区を眺めたり写真を撮ったりしながら、昨日と同じルートで宿へと戻った。
ホテル移動
宿を出る際に宿泊費を払おうとしたが、宿の人になかなか会えず、宿泊費は80ソモニだが細かいお金が無いので100ソモニを置いていこうかと思ったが、決心がつかないうちに宿の人に会うことができた。しかし、宿代は2泊分の160ソモニだという。昨日の分は昨日払ったような気がしていたのだが、そういえばお釣りがなくて払っていなかったことを思い出し、160ソモニを支払って宿を後にした。100ソモニだけ置いていって宿代不足になってしまわず良かった。
荷物が重いので、宿からは「タンゲン」でキヴェカス・ホテルに向かうことにした。パミールではマルシュルートカのことを「タンゲン」と呼ぶらしく、この言い方は昨夜Aさんから結婚式会場への行き方を電話で教えてもらった時に知った。Aさんによると中国語由来の単語らしく、漢字でどう書くのか気になったが、本稿執筆時点で漢字表記は不明なままである。
キヴェカス・ホテル方向へのタンゲンを待っている間、同じ場所にいた少年たちに英語で話しかけられ、シュグニー語、ロシア語、英語を交えつつ少し話をした。少年たちからは、何故かキルギス語は話せるかと聞かれた。
タンゲン内では、常に英語を話す欧米風のおじさん(パミール基準でも欧米風の雰囲気のするおじさんだったが、私がシュグニー語で話しかけて通じていたので、多分地元の人だろう)に大学前で降りるところまで案内してもらい、その後さらにキヴェカス・ホテルの前まで案内してもらった。
キヴェカス・ホテルは、部屋は広く快適だった。ただしWiFiはあるものの極めて遅く、劣悪だと聞いていたホログのインターネット事情の一部を体験?することができた。また、水道からは水が少ししか出ず、やがて全く出なくなった。
パミールの結婚式
14時半より少し前に、Aさんの従兄弟の結婚式会場のレストランに向かうべくホテルを出た。ホテルを出る前に、水が出ないことを受付の娘さんに伝えた(ホテルに帰った時には無事水が出るようになっていた)。
Aさんによると、レストランには4番のタンゲンで行くことができるが、今朝までの宿からは少し離れた場所にあるタンゲン乗り場から乗る必要があるとのことだった。乗り場まで行き、件のレストランに行きたいが4番のタンゲンはどこかと停まっている車の運転手さんに聞いたところ、その運転手さんの車で20ソモニでレストランまで行くことになってしまった。日本円では250〜300円程度だが、現地としてはそれなりに高めの金額かもしれない。
パミールの新郎新婦
レストランの前には人だかりがあり、何人かに「サルェーム」と挨拶をしてその後は一人で待っていた。しばらくすると、一人のおじさんに「Aのゲストか?」と話しかけられ、予定の3時になると他の人よりもやや優先してレストラン内に案内された。受付ではAさんに事前にアドバイスされていた金額のお金を受付の人に渡し、受付を行った。
会場内では当初は一人でテーブルに座っていたが、間もなく他のお客も同じテーブルに座った。司会はタジク語とシュグニー語混じりだった。派手でにぎやかなパミール音楽が奏でられ、新郎新婦の入場。新婦はパミール風だが赤を基調としたドレスに、薄いヴェール付きの赤いパミール帽。但しヴェールは常に上げていた(パミール風の服の人は新婦だけだった)。新郎は暗色系の背広に赤いネクタイと赤いパミール帽。ネット上で見かけるパミールの新郎新婦の典型的なスタイルだった。
パミール・ダンス
食事は式が始まる前からちょくちょく始まっていた。
式が始まると、同じテーブルのおじさん達から、ダンスをしに行ってこいと何度か言われた。私以外の人もダンスに行くよう言われていたが、私と、私の隣の緑のパミール帽をかぶったおじいさんが、特にダンスに行くよう強く勧められた。せっかくの機会なので、ダンスをしに行くことにした(おじいさんもダンスをしている場所まで連れてこられたが、実際にダンスをするまでに至ったのは主に私だった)。踊っているのは女の人が多かったが、私は踊っている男の子を相手に見様見真似でダンス。式の終盤では、スマホ越しにAさんもダンスを見てくれた。
ウォッカとハイヤーム
隣の緑のパミール帽のおじいさんからはウォッカも何度も勧められ、何度か一気飲みすることになった。かなり久々のウォッカだったが、とりあえず泥酔せずに普通にいることができた(宿に帰ってからはほとんど何もできなかったが)。
せっかくのお酒なので、オマル・ハイヤームの詩のひとつでも朗読したくなり、パミール帽のおじいさんに
と最初の一行を言ったところで、おじいさんから「タジク語も話せるのか」と言われた(それまではカタコトのシュグニー語で話していた)。
「はい、ペルシア語の詩が好きで、イランのペルシア語を勉強しています。最近はタジキスタンのタジク語も少し勉強しています」といった趣旨の返事をシュグニー語でしたかったが、私のシュグニー語力ではなかなか厳しく、後半のほうをどう言えば良いかを迷っているうちにハイヤームの詩の続きを詠む機会を逸してしまった。
パミール音楽
会場のライブ音楽は、いかにもパミール音楽といった感じの、しばしば響く低音にゆさぶられる派手な音楽である。どちらかというとクラシック寄りの音楽に親しんでいる私にとっては、パミール音楽はある意味「自分には早すぎる音楽」のようにも感じらていたのだが、生で聴く中で以前より親近感も感じるようになる一方、依然として「自分にはまだ早い」という感じもした。タジキスタンのロック音楽関係者はパミール人が多いとどこかで見たことがあるが、まさにそうなのだろうなと、私自身はロック音楽には詳しくないものの改めて何となく納得した。
歌はシュグニー語の歌がメインだったが、例によって私の知っている歌はほとんど無かった。歌われていた歌の中でほぼ唯一知っていたのがNigina Amonqulovaの「Marines」で、この歌は前半がシュグニー語、後半がタジク語なのだが、シュグニー語の歌がメインな中でこの歌は何故か後半のタジク語部分だけが歌われていた。個人的な印象としては、メロディーに関しては後半のタジク語部分のほうがよりパミール色が濃い気がするので、それが理由かもしれない、と思ったが、正確な理由は不明である。
夢か幻か
会場で楽しい時を過ごし、新郎新婦の幸福を願いつつ送迎タンゲン(?)でおじさんやおばさん達と一緒にホログ市内に戻った。
帰る途中、ホログ市内でパミール服の女性を車の中から一瞬見かけた……気がする。気のせいにしてははっきり見えた気がするし、実際に見たにしては見えた時間が一瞬過ぎる気がする。果たして夢か幻か。
Gさんからメッセージがあり、明日月曜日は会えないが明後日火曜日には会えるとのことだった。例によって体調はウォッカを飲む以前からあまり思わしくない。明日は一日ゆっくりと過ごすことにしよう。
ホテルに帰ってからは、風呂場で服をいくらか洗濯。グント川の流れの音を聞きつつ過ごし、就寝した。
(続き)
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