私が看護師になった理由

お久しぶりです。

前回の投稿からあっという間に時間が過ぎてしまいました。

あきです。


最近はもっぱらCovid-19の対応に追われていて、専門看護師としての活動よりも感染対策を徹底して行うことに時間と労力が割かれているような状況です。

看護師としては、Covid-19の対応はもちろん重要なのですが、これまで看護を必要としていた患者さんへの質の保持が求められているような気もします。


新型コロナウイルスへの対応や実情も聞かれることが多いのですが、またの機会に共有できればと思っています。本当に答えのない、考えさせられることばかりです。


本題です。

私が看護師になった理由 

The reason I became a Nurse.

幼少期

関東の田舎町、養豚農家で生まれ育ちました。自然に囲まれ、わがまま放題に育てられた私でしたが、周囲にはたくさんの同世代の友達、少し年下の子が多く、母親同士が中良かったこともあり、年齢関係なくその子たちと遊ぶ機会が多かったように記憶しています。

人と遊ぶことが大好きで、家の中でお人形遊び、というよりはおてんばでとにかく家の外を駆けずり回っていた女の子でした。2つ年下の弟がいるのですが、彼はまあ一番の被害者と言っていいほど、私の遊びに巻き込まれていました。今もネタにされるほどです。

そんな子どもたちの中である意味リーダーシップを発揮していたので、母親やその周りのお母さんたちからから「面倒見がいいわね、将来は保母さんかしら」なんて言われたりもしたのですが、なぜか私の頭には【看護婦さん】がありました。

何に影響受けたかもわからないのですが、漠然と人のために何かしたい、何かすごいと思われる仕事が看護師像だったのかもしれません。

なんとなく覚えているのは小学2年生のある時、家の中でいつものように弟と兄弟喧嘩。ガラスドアの鍵を閉められて、案の定そのドアを蹴った私は割れたガラスで右足の小指側側面を約10cm以上パックリ切りました。慌てて父親は病院へ連れていき、局所麻酔をして12針ほど縫う羽目になりました。その時の局所麻酔がまあ痛かった...チクチク刺していくのですが、そこにいた看護師が顔元に来て「うんとこしょ、どっこいしょ」(なぜその掛け声なのかいまだにわかりません)と手を握りながらそばにいてくれました。手を繋いでくれたことや掛け声がその時の私には精神的な逃げ場であり、『看護師さん=すごい人』になりました。

そんなこんなで病気一つ知らない私ですが、看護師さんになる夢を持って小学校時代を過ごしていました。特にその頃放送されていたナースのお仕事は毎週の楽しみで、看護師の仕事をコミカルに、でもハートフルに描出していたように思います。この時私は藤木直人さんのファンでした。(そんな研修医、医師がいたらかっこいい!)

中高時代

私は田舎にしては珍しい、中学受験を経験したので、中学・高校は一貫校に通いました。中学受験のきっかけは小学校4年生の終わりのこと、母の実家近くをドライブしていた時に見えた宮殿のような校舎(県内での中高一貫校)でした。お母さんここは何?と聞くと「ここは特別な人しかいけないところ」と適当かつ子ども心をくすぐる一言。私がいくことになったら?「お母さん、びっくりして腰抜かして泣いちゃうかも」そんなこと言われたら子どもの承認欲求は高まります。

翌月には中学受験の塾に通い始め、どんなもんかもわからないまま受験しました。母の言っていた「特別な人しかいけない学校」は見事に落ちましたが、根っからのポジティブ思考の私は自分が実力でちゃんと受かった中学に進んだ方が余裕もって学校生活が送れる、などと楽観的に考えていました。結果、私にはすごく合っていたので良い中高生活を送ることができました。

私に巻き込まれていた弟はちゃっかり要領もよく、当時はまあ素直で大人からも好かれる性格で可愛がられ、成績も私より良かったので難なく「特別な人しかいけない学校」に通いました。弟が中学に受かる頃には、私は中学3年生くらいで中学生活を謳歌していたので、よくある劣等感や嫉妬心なども全く感じずに弟の合格を一緒に喜んだのを覚えています。

中学進学後も将来の夢は「看護師」、と変わらず先生との面接でもブレない内容を通していました。あまりにも看護師1本でいた私を心配して、中学2年生の担任の先生から「看護師になりたい気持ちはすごく分かったし良いと思うけど、世の中には本当にたくさんの職業がある、だから一度まっさらにして先入観なく他の職業を考えてみたら?」と提案されました。やや反抗期でもあった私はこんなに夢がはっきりしているのになんで他を考えなきゃいけないの?向いていないってこと?なんて可愛くないことも考えましたが、ひとまずいうことを聞いて図書館で職業の本を読みました。(当時13さいのハローワークなんていう代物はありませんでした)いろんな職業のページを見て自分がその仕事をしたら...なんて妄想して見ましたがワクワクせず...結果、看護師以外はやっぱり考えられない!という結論に達しました。

高校へ進むと、より大学受験が現実的になります。キラキラした都内の大学に憧れますが、看護学科がある大学は限られていて、全国模試の希望大学を書くのも悩んだ記憶があります。結局、高校2年生の時に同じ県内の県立大学(医療系大学)の公募推薦枠の話をもらい、【公立】の響きで受験を決めました。中高私立はやはり両親に感謝していましたし、大学で公立に行ける可能性があるなら、ありがたいという気持ちで受験を決めたと思います。高校3年生の担任からは「明るい性格とムードメーカー、幼稚園からの皆勤賞(健康優良児)」という理由で推薦するとはっきり言われました。看護師たるもの自己管理能力!というイメージがあったので、頑張り続けていました、皆勤賞。ここで役に立つとは!

大学生活(モラトリアム期)

高校の友達がほとんど都内のキラキラ大学に進学する中、私は県内に残り、それなりの大学生活を送りました。正直思っていたようなキラキラ大学生活とは違い、看護師になるために通った大学、という感じです。50人しかいない学科生。少し窮屈さも感じた私は、世界はいろいろ見えた方がいい、いろんな価値観を認められる人になりたいという思いから、留学を決めました。

ただ、本分は看護学生なので、留年せずに看護師になりたいという思いで、夏休みと春休みを使って短期留学を選択しました。両親には自分の覚悟を示す意味でもアルバイトで貯めたおかねと計画書を作成し、プレゼンしたことを覚えています。最初びっくりしていましたが、否定せずに「気をつけてね」と送り出してくれました。

アルバイトでひたすら貯金→夏休み2ヶ月をCanada→アルバイト→春休みをCanada→アルバイトで貯金→友達と海外旅行 と看護学生とは思えないハードさでした。

家族のコミュニティ、大学のコミュニティ、アルバイト先のコミュニティ(3箇所掛け持ちしていたのでその分コミュニテイは3倍)、中高の友達のコミュニティ、海外の友達のコミュニティなど、自分によっていろいろな世界観があることがすごく刺激になるし、いろいろな価値観を認め合える環境になったと思っています。そして計画して実行して振り返る(反省する)という無意識のPDCAサイクルがここで生きていたような気がします。

大学にいると、全員看護師(保健師もしくは助産師)になる予定の人たちと過ごします。モチベーションが上がる世界なのですごく大切にすべきですが、一方で閉鎖的になりやすいので、他の学科や世界観の友達と色々な話をすることで多角的な思考になるのかなと今振り返ると思います。

短期留学先のCanadaでも色々感じたことや思い出はありますが、また共有できる機会があったら書いてみようと思います。今でも留学するならVancouverがいいななんて思うくらい素敵な場所でした。

大学2年生のとき(実習も始まって看護師の仕事がなんとなくわかってきたところ)、私の祖母の膵臓がんが分かりました。おそらく進行は進んでいるだろうということで入院はしていましたが、積極的治療はせず穏やかに過ごしていました。私はその時代学の近くで一人暮らしをさせてもらったのですが、おばあちゃん子だったのでよくお見舞いに会いに行っていました。

おばあちゃんが歯磨きをする時に外した入れ歯を洗おうと手を差し出すと「そんなこともしてくれるの?汚いからいいわよ」と遠慮されてしまいました。看護師を目指している孫がここまでできるようになったと喜びながらも、人としての尊厳を保とうとしている祖母の姿が今思い出しても色んな感情が溢れてきます。祖母は裕福な家で育ち、品のある姿が印象的で、入れ歯を外すところを見たことがないくらい福に溢れたおばあちゃんでした。がんということを本人に伝える間もなく、祖母は知ってかしらずか「痛い」なんて一言も言わずにそのまま病院で亡くなりました。今、看護師になった私が思い返すと、もっとできたことあったな、なんなら「家に帰りたいわ」と話す祖母の思いも可能にできたかもしれないなんて思います。看護は無限ですね。生まれた時から面倒を見てくれていた近しい祖母の存在は今もたまに思い出しますし、患者さんに対峙する時にリンクさせてしまうこともあります。祖母の死後、ちょうど弟の都内大学の進学が決まり、両親だけになってしまうので、私は大学3年生から実家に戻りました。

大学4年間を過ごす中で、就職活動もしたわけですが、私は東京に出る、の一択でした。看護師になりたいという夢が少し具体性が出てきて、「どんな時でも迅速な対応ができて、人に寄り添える看護師」像、そのためには急性期(急変対応ができる/ICUとか)で働きたかった。そしてどんな時でも、というのは災害、そして国際対応も。助産師もいいなあなんて考えていた私は、【急性期】【国際医療・災害医療】【周産期】この3つが強い病院に行きたいと思っていました。すると東京で2.3つほど候補が上がってきます。一つ目の病院に見学に行った時、建て替え間も無くとても綺麗な施設だったので即決しました(全然他と比較できていない)。まあいわゆるピンときたというわけです。

地元の友達が大学を卒業して地元に帰ってくる中、私は逆行して晴れて上京した分です。とにかく時間が早くてあっという間でした。そんなわけで新社会人とともに新人看護師になったわけですが、看護師になってからは別のnoteで残していきたいと思います。


長文お読みいただきありがとうございました。

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