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夢をかなえる働き方

2021年8月現在、私は「派遣社員」として「週4日」働いている。社会人になってから7年、これまでずっと「正社員」で「週5日」働いてきた私が、なぜこの働き方を選んだのか――今日はそんな話がしたい。


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7年前、大学を卒業したばかりの私が「最初の職場」として就職先に選んだのは、教育系の広告代理店だった。

どうしても文章を書く仕事がしたくて、卒業ギリギリまで粘った就職活動。ようやく内定を勝ち取ることができたその会社は、高校生を対象とした進路相談会の企画や、広報ツールの制作を行っていた。学生時代、オープンキャンパスの運営や高校生向けの冊子の作成に携わっていた経験もあったし、私に「ぴったりな会社」だと感じて入社を決めた。

――でも、制作部門への配属は叶わず、私に与えられたのは事務の仕事だけだった。

主な業務内容は電話対応と資料作成。簡単に聞こえるかもしれないけれど、トイレに行く時間すらないほど忙しかった。日中は電話が鳴りっぱなしだし、昼休みも電話をとらなければいけないから、外にランチを食べに行くなんてもってのほか。出勤前にコンビニでおにぎりやカップ麺を調達しておいて、仕事をしながらデスクで食べる。気の休まらない昼休みだった。

落ち着いて仕事ができるようになるのは定時を過ぎてから。毎日決まって22時頃まで会社に残っていた。業務の都合で朝7時に出勤しなくてはならない日も多く、8時間勤務どころか15時間勤務が私の「普通」だった。それでも仕事が片付かなくて、土曜日も出勤せざるを得なかった。

6勤1休、15時間勤務。そんなこと、面接で言っていただろうか……?


入社して3ヶ月後には、もう仕事をやめたかった。幸い、会社の先輩たちは優しい人が多かったけれど、それ以上に仕事がしんどかった。膨大な業務量もつらかったけれど、「文章を書く仕事」ができないことが、何より一番つらかった。事務の仕事を馬鹿にしているわけではないけれど、朝から晩まで休みなく身を粉にして働くなら、せめて好きなことがよかった。

とはいえ、退職する勇気もなかった。入社3ヶ月で音をあげるような奴を、他の会社で拾ってくれるはずがない。社会人として何も経験を積んでいない状況で転職するのもリスキーだと思った。

それに、負けず嫌いでプライドの高い私自身が、やめることを許さなかった。当時、新社会人の離職率が高いと話題になっていたこともあり、「絶対に3年働いてやる!」と躍起になっていた。大学時代の友達が楽しそうに働いていて、悔しかったのもある。


――広告代理店を退職したのは、入社してから2年4ヶ月後の暑い暑い夏の日だった。

入社3年目を迎え、これまでの仕事ぶりを評価してもらえるようになった頃。会社の人はもちろん、取引先の人とも良い関係を築けていたし、抜群に仕事がやりやすくなっていた。お褒めの言葉も数え切れないほどいただいた。「次の仕事も玄川さんに担当してもらいたい」「玄川さんには絶大な信頼があるから」――でも、それらの言葉を聞いたとき、もうここでの仕事は、「やりきった」ように感じていた。

6勤1休で朝から晩まで働き続けた「成果」は、十分に得られた。この会社でやり残したことは、もう何もない。会社の人たちは大好きだったし、みんなとずっと働くのもそれはそれで幸せなんだろうけれど、それよりも、自分の夢を叶えたい。

どうしても、文章を書く仕事がしたかった。


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広告代理店を退職した後、念願だった「文章を書く仕事」にたどりついた。運よく「コピーライター・ディレクター」としてデザイン事務所に就職が決まったのだ。

転職活動中、周囲の人には「ライターになりたいのなら、フリーライターを目指せば?」と言われることも多かった。でも、誰かからちゃんとライティングの技術を学びたかったし、何より「正社員」であるがゆえの「安定」を手放す勇気がなかった。

そのデザイン事務所は、専門学校などの広報ツールを制作している、5人体制の小さな会社だった。私自身にライティングの実務経験はなかったものの、学生時代に高校生向けの冊子を作っていたこと、教育業界の知識があったこと、この二つが採用の後押しになってくれた。馬車馬のこどく働いたあの2年4ヶ月がここで実を結んだ。


仕事は、シンプルに楽しかった。執筆している時間より、取材にいったり、編集をしたり、クライアントやデザイナーとやりとりをしたりする時間のほうが圧倒的に長かったけれど、企画を練る段階から制作に携われることにワクワクしていた。クライアントとデザイナーの板挟みになったときは、前職で培った「信頼関係を築きながら仕事をする方法」が活きたし、自分の書いた文章がデザインされた紙面にカチッと収まっているのを見る度に、感動で胸がいっぱいになった。制作物が高校生のもとに届いて、進路を考える一助になることにも、やりがいを感じていた。


――けれど、その一方で「もっと私の文章を書きたい」という気持ちが、日に日に強くなっていった。

言うまでもないけれど、ライターは自分の書きたいことを好き勝手に書く職業ではない。特にコピーライターは、クライアントの商品やサービスを売るために言葉を紡ぐのが仕事だ。そういう職業だとわかっていたはずなのに、「文章で自己表現をしたい」という欲がムクムクと心にわき上がってしまった。


……。

……違う。

私は最初から「自己表現」がしたかった。


小学2年生の時、初めて小説を書いた。何人か友達に小説を書いている子がいて、真似して書き始めたのがきっかけだった。それから、創作にのめり込むようになった。みんな次第に書かなくなってしまったけど、私だけは書いた。ミステリー、ファンタジー、恋愛、ホラー、コメディ……オリジナル小説を綴ったノートは、中学を卒業する頃には30冊にも及んでいた。携帯電話を持つようになってからは、創作の舞台はインターネットになった。その頃には、明確に将来は作家になりたいと思っていた。

――しかし、その夢は、大学でコテンパンに打ち砕かれた。文芸創作の勉強をするために進学した大学で、私は何一つとして結果を残せなかった。教授からもゼミの仲間からもたいした評価を得られずに、あっけなく4年間が終わった。才能がないことを思い知った。この程度のレベルじゃ、作家にはなれない。筆を折るには十分な挫折だった。

就職活動であんなにも「文章を書く仕事」にこだわっていたのは、8歳の頃から続けてきた「書く」という行為を、何らかの方法で肯定したかったからなんだと思う。何も成し遂げられずに終わるなんて嫌だった。執着以外の何物でもない。書く仕事ができなければ、アイデンティティーが崩壊しそうだった。

作家になれないなら別の方法で、と模索していた時に出会ったのが「ライター」という職業だった。


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noteに登録したのは、広告代理店で事務の仕事をしていた頃だった。大学を卒業して「もう創作は辞める」と心に決めていたはずだったのに、なぜだか「書きたい」という欲望が抑えきれなかった。noteを選んだ理由は、広告がなかったから。今よりも全然機能は整っていなかったけれど、ストレスなく読み書きできる点に惹かれた。

本格的にnoteで執筆を始めたのは、ライターに転職してからだ。広告代理店時代は多忙を極めていたために、まったく書く時間が取れなかった。デザイン事務所での仕事は、残業も少なく、何より週2日の休みがあった。心と身体に余裕が戻ってきたおかげで、思いっきり好きなこと――……文章を書くことができるようになった。

勘違いかもしれないけれど、noteでエッセイや小説などの自分の文章を書いているうちに、「手応え」のようなものを感じるようになった。権威のある人に認められたとか、大きな賞をとったとか、note編集部による話題の記事に頻繁にとりあげられるとか、そういったことは一切ない。ただ、多くの方に読んでもらえていること、たくさんのスキやコメントをいただけていること。それらが私の感じる「手応え」だった。

仕事でも文章と向き合っているからか、個人的に書く文章も学生の頃より格段に上手くなった。学生時代、教授やゼミ生に認められなかった理由が今ならわかる。あの頃の私は、やっぱり下手だったのだ。

けれども、文章の世界は甘くない。ちょっと読まれているからって、ちょっとスキやコメントがつくようになったからって、それでプロの作家になれるわけではない。本当に上手くて才能があるなら、今頃とっくに誰かに見つけてもらって文壇で活躍している。

でも、それでも、心のずっと奥のほうにしまった「作家になりたい」という夢を、呼び覚ますには十分な手応えだった。


――昨年の6月、3年8ヶ月勤めたデザイン事務所を退職した。やっとの思いで手に入れた憧れの仕事を手放すことに、後ろ髪を引かれる気持ちもある。だけど、私のやりたい「書く仕事」はライターじゃないって、もう気付いてしまったから。

自分の文章を書く道に進みたい。
だから、もう一度挑戦したい。
「作家になる」という夢に。


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デザイン事務所を退職した後、私が次に選んだ働き方は「派遣社員として週4日働く」という方法だった。「生きるための仕事」と「夢を叶えるための活動」を両立するには、どんな働き方がいいのか考えた結果だった。

「生きるための仕事」は、生活していくお金を得るための仕事のこと。作家になるまで貯金で過ごせればよかったのかもしれないけれど、何年かかるかわからない。というか、残念ながら貯金などない。「生きるための仕事」は必要不可欠である。「夢を叶えるための活動」は、エッセイや小説を執筆したり、SNSで発信したり、作家になるための活動のことだ。言うまでもなく、夢を叶えるためにはこの活動を頑張らなくてはならない。けれど、多くの夢追い人が「生きるための仕事」に注力し、「夢を叶えるための活動」のほうを疎かにしてしまう。だからこそ、この二つを両立させることが重要なのではないかと考えたのだ。

これまでと同じように正社員で週5日働いたら、金銭面でも個人の活動でも「現状維持」はできるだろう。でも、「夢を叶えるための活動」を「加速」させられるかといえば、それはできないと思った。


ちょっと話が変わるけれど、会社が大きな「船」だとしたら、正社員は「乗組員」にあたるのではないだろうか。会社の掲げる夢(ビジョン)に共感した人が船に乗り込み、目標に向かって一丸となって船を動かしていく。

私も、今まで広告代理店やデザイン事務所といった船に乗り込み、懸命に働いてきた。でも、会社の夢は、私の夢にならなかった。広告代理店で与えられた役割と、「書く仕事をしたい」という私の夢が一致しなかったから船を降り、そしてまた、「作家になる」という夢を叶えるために、デザイン事務所の船を降りた。

会社の夢と――つまり、それを達成するために与えられた業務やポジションと――自分の夢とを、うまく両立できれば、船を降りずに済んだのかもしれない。でも、私の性格上、同時に二つのことに全力を捧げられなかった。情熱があるといえば聞こえがいいのか、まあ完璧主義だからなのかもしれないけれど、目の前の一つのことに100%を注ぎたくなってしまう。50%と50%にわけたとしても、まだ余力があると勘違いして、自分のために残した50%を会社のために使ってしまうのが、「私」という人間だった。

実際に、広告代理店時代、私は会社のために命がけで働いてきた自負がある。残業や休日出勤は当たり前だったし、個人の活動以前にプライベートすらなかった。私の身体は会社の利益をあげるために存在していた。もちろん、正社員である以上、会社に貢献する責任があるとも思う。それを重々承知していたし、だから個人の活動を優先させるつもりはなかった。それが、「正社員」という働き方なんだとも言い聞かせていた。

「私の夢は、会社の夢を叶えることじゃないんだよなあ」と気づいた時、もう正社員では働けないと思った。だから、思い切って「正社員」で働くことを選択肢から外した。


働く日数を5日から4日に減らしたのも、正社員じゃなくて派遣社員ならそういう働き方ができると思ったからだった。派遣社員でも週5日働くなら、正社員と変わらない。むしろ、安定がなくなるのでマイナスである。先に述べたように、私は「現状維持」じゃなくて「加速」がしたい。だから、「夢を叶えるための活動」に費やせる時間を増やさなければダメだと思った。

正社員じゃなくなれば安定もなくなるし、働く日数を減らせば収入だって下がる。派遣社員で週4勤務、パッと見、何もいいことがなさそうにみえる。安定も収入も失ったことで、いつか後悔する日がくるかもしれない。

でも、たとえそうなったとしても、夢を叶えるために今やれることを選びたかった。


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派遣社員として事務の仕事を始めてから、8ヶ月が経つ。

ここまで威勢の良いことを書いてきてしまったけれど、「正社員」と、ライターという「憧れの職業」を同時に手放すことは、もちろん不安もあった。

正社員の頃と比べて収入が良いとは言えないし、インターネットでは「ライター」という肩書きがあったほうががつく。「ライターではない私」に興味を持ってくれる人がいるのだろうかとも思った。

――でも、それらを手放してみても、私が恐れるようなことは何ひとつなかった。むしろ、自分の夢に向かって前進できているという充実感のほうが、今のところ大きい。「派遣社員・週4日勤務」という働き方は、想像以上に私に合っていたのかもしれない。

休みの3日間は、主に創作や家事、仲間たちとの今後の活動についてのミーティングにあてている。だらけてしまう日もあるけれど、ようやく自身の活動の土台が固まってきた。これからどんどん加速していく予感がする。


「生きるための仕事」はどうかというと、こちらもこちらで順調である。心強いのは、派遣会社の担当さんや勤務先の人々に、私のやりたいことを理解してもらっていることだ。

仕事を決める時、派遣会社の担当さんには「創作活動をする時間がほしい」と正直に打ち明けていた。そのうえで、週4で働けて、できるだけ残業の少ない仕事をいくつか紹介してもらった。今勤めている会社を選んだ決め手は、「ここなら、玄川さんの創作活動と両立できるんじゃないでしょうか」という担当さんからの一言だった。

私が1日休むことで滞ってしまう業務も、チームの人たちが上手く調整してくれていて本当にありがたい。よくこんなワガママな働き方が罷り通るなと、自分でもびっくりしてしまう。だからこそ、勤務時間中はしっかり貢献したい。短い時間でできる限りの成果を出すのが、私の感謝の気持ちだ。


――けれど、勤務先のなかには、私のことを「やる気がない」と思っている人も、いるにはいるらしい。週4しか来ないし、いつも定時で帰っているからだろう。私も、この働き方をすべての人に理解してもらおうとは思わない。誤解されても仕方ないとある程度腹をくくっている。

「創作活動をしたいからこういう働き方をしている」と打ち明けたところで、白い目で私を見る人もいるだろう。夏が終われば30歳になる。30歳にもなってたいしたキャリアもなく、夢を追いかけているだなんて、馬鹿馬鹿しいと思う人もいるに決まっている。私だってたまにそう思う。会社の目標を達成するために一生懸命頑張って働いている人を見ると、「私は一体何をやっているんだろう」と虚無感を抱いてしまうことが、哀しい哉、あるにはあるのだ。

勤務先の人のことは好きだし、もっと力になりたい、もっと頑張りたいと思うこともある。でも、そうしたら。私は自分の時間を削り、夢を犠牲にして、100%の力で働いてしまう。広告代理店時代のデジャヴだ。それを避けるために、私はこの働き方を選んだのだ。もどかしい。会社の夢が自分の夢だったらよかったのに。でも、どんな会社で働こうが、その会社の夢と自分の夢が重ならないことも、もう痛いほど知っている。

虚しさや哀しさをぐっと飲み込んで、淡々と今の自分にできることをする。会社の人たちも頑張っているんだから、私も頑張らないと。そうじゃないと、胸を張って会社に行けない。この働き方をさせてもらっている意味がない。


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社会人になって7年、雇用形態も働く日数も仕事の内容も、がらりと変わった。振り返ってみると、一貫性のない、心許ないキャリアだなと笑ってしまう。

さっき、会社のことを「船」にたとえたけれど、派遣社員という働き方は、船に「相乗り」させてもらっているような感覚に近い。目指す場所は違うけれど、「途中まで乗せてください!」と言って、少しだけ一緒に乗せてもらっているイメージだ。もちろん、タダで乗せてもらうわけにはいかない。乗せてもらっている間は、他の乗組員と同じように汗を流して働くのだ。


正直、今までの私は――、「会社の仕事」と「自分の夢」がイコールでなければならないというか、イコールであればあるほど良いと思っていた。それが私の理想だったのかもしれない。

でも、働き方を変えたおかげで、「会社の仕事」と「自分の夢」をいい意味で切り離して考えられるようになったと思う。「派遣だから」と言って頑張らなくていいわけではないし、責任がないわけでもないけれど、週4勤務という雇用契約を結んだおかげで、強制的に区切りがつくようになった。100%か0%でしか注げなかった私の力を、「会社の仕事」と「自分の夢」とで意識的に半々に分けられている気がする。「会社の仕事」と「自分の夢」とのバランスを、これまでよりうまく図れるようになった。


この働き方を理解できないと思う人もいるだろうし、全員に理解されなくても構わない。「私が」この働き方を「好きだ」と感じていて、「合っている」と思っていることが最も重要なのだから。

会社の目的地と私の目的地は違うけれど、「会社の仕事」と「自分の夢」とをうまく両立させながら、私はここで、感謝をもって働いていく。いつか、船を離れるその日まで。


#私らしいはたらき方

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玄川阿紀
缶コーヒーをお供に働いているので、1杯ごちそうしてもらえたらとってもうれしいです!最近のお気に入りは「ジョージア THE ラテ ダブルミルクラテ」。応援のほど、どうぞよろしくお願いします。