【白い落果】第1話 #1 束の間の休養~温泉へ(露天風呂に白い肌)
京子は、同僚の由美と二人で、山あいの温泉に来ていた。
枝を飛び交う鳥の声や、谷のせせらぎを聴きながら、露天風呂に白い肌を浮かべていたのである。
白衣の天使に憧れ、看護婦の職を手にした京子であったが、病院という特殊な社会の中で、気付けばもう三十の入り口が見える年頃になっていた。
燃えるような恋をして、生涯の伴侶を見つけたい。結婚したら戸建て住宅に住みたい。子供も二人か三人産んで、母として妻として幸せな人生を…。
そんな平凡な願望さえも、日々の喧騒の中で何時しか隅に追いやられてしまっていた。
「おんなとしても…」
京子は無意識に、身体の奥底から込み上げる異様なざわめきを感じた。すると右手がゆっくりと小高い丘に向かった。
滑らかで艶やかで、弾力性のある瑞々《みずみず》しい二つの丘。麓から滑り上がるように頂上をめざしてゆく。
そして辿り着いた頂きに、指先がかすかに触れると京子の身体はピクリと動いた。
自分の中に、得体の知れない何かが棲んでいる。そしてこれが目覚めると一体どうなるのか。京子は怖さもありながら、未知への好奇心に苛《さいな》まれるのである。
「なにボンヤリしてるの?」
由美の声に京子はハッと吾に返った。
「あぁぁ、気持ちいいわね」
それまで、竹垣の向こうに広がる渓流を眺めていた由美が、満足そうに笑みを浮かべながら、京子の隣に寄ってきた。
「ありがとう由美、来てよかったわ」
無二の親友である由美が、疲れている京子を慮《おもんばか》っての一泊旅行であった。
つい数日前、プロ野球の長嶋茂雄選手が現役の引退を発表した。巷《ちまた》では、殿さまキングスの「なみだの操」が大ヒットしていたのである。
そして宝塚歌劇では「ベルサイユのばら」が初公演となり、話題を呼んでいた。
半年前には、フィリピンのルバング島で元日本兵の小野田さんが発見された。戦争が終わっても、小野田元少尉の戦争は、それから二十九年間も続いていたのである。
「わたしも毎日が戦争だ」
京子は、ニュースを見たり聞いたりするたびに、そう思っていた。
京子は露天風呂にくる途中、廊下ですれ違った老夫婦の顔が浮かんできた。
「若い女が二人、平日に優雅なもんだ」
とでも言いたげな視線をチラリと向け、夫婦は顔を見合わせたのである。
「冗談じゃない。死に物狂いで働いてるんだよ。生死の狭間にいる人達が、どれほど過酷な状況か、あんたに解るのかよ」
京子は老夫婦の視線を、思い出しながら心で叫んでいた。だが京子は、そんなことを面と向かって言える性格ではない。
実際はとても優しい女なのである。ちょっとふざけて思っただけなのだ。
京子は湯舟の浅い段に腰をおろしてみた。ゆっくりと腰を持ち上げながら両足を前に伸ばした。そして浅い段に両肘をつくと、京子の身体が湯舟に浮かんだ。顔だけが湯面の上に出ていた。
「あぁ~っ」
京子は目を閉じて大きく息を吐いた。
「ラッコみたいだね」
由美が京子を見て笑った。
たしかにラッコだ、と京子も笑顔で返した。
湯けむりがゆらゆらと立ちのぼる平日の夕暮れ。京子は連日の激務で、凝り固まった肩や心がスーッとほぐれる感じがした。
「婦長の小言も無いしね」
いつの間にか由美も、京子の隣でラッコになっていた。
由美は、京子と婦長がギクシャクしているのも知っていた。そんな京子の胸のうちを吐露するかのように呟いてみせたのである。
「まぁね」
京子は由美に頷《うなず》きながら、足のつま先をピシャピシャと跳ねていた。
由美は何かにつけ京子に意見をする、おせっかい屋である。同い歳ということもあるが看護学校時代からの仲良しであった。
少しおっとりしている京子と、せっかちな由美は、どういう訳か馬が合うのだった。
「いろいろあったけど、みんな必要だった。今、しみじみそう思うなぁ。遠回りもしたけど、自分の人生に無駄なんてなかったよ」
と由美は、しんみりした表情で言った。
紅葉を楽しむには、もう少し時間が掛かりそうだが、束の間の休養日をリフレッシュできて、京子はまた頑張れる気がした。
第1話 2 束の間の休養~温泉へ
【白い落果】目次・あらすじ
【白い落果】幻冬舎からの講評
第1話 1 束の間の休養~温泉へ
第1話 2 束の間の休養~温泉へ
第1話 3 束の間の休養~温泉へ
第2話 1 病棟の人間模様(難病の少女)
第2話 2 病棟の人間模様(女の葛藤)
第2話 3 病棟の人間模様(男の欲情)
第3話 1 京子の外来(それぞれの痛み)
第3話 2 京子の外来(婦長の秘密?)
第4話 1 男と女の性(三奈の告白 )
第4話 2 男と女の性(幸代の告白 )
第4話 3 男と女の性(婦長の蜜月 )
第4話 4 男と女の性(京子の果実 )
第5話 1 濡れた果実(京子の性)
第5話 2 三奈の旅立ち(京子の選択)完
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