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バルバドスから始まったスタウト調教師の数奇な競馬人生(イギリス)

 2024年は史上最高の調教キャリアに終止符が打たれた。サー・マイケル・スタウトの現役最後の数年間は初期に比べると面白味に欠けたが、やむを得ないことなのかもしれない。なぜなら英国のあらゆるトップトレーナーが歩んだ道のりよりも、スタウトが辿った道のりは紆余曲折のくりかえしだったからだ。

 スタウトが競馬の世界に足を踏み入れたのは偶然だった。彼は17世紀後半からカリブ海の島に暮らす先祖をもつ両親のもとバルバドス(カリブ海の小島国)に生まれた。そして5歳のとき、父親が警視副総監に昇進し、一家は首都ブリッジタウンの郊外ギャリソンに移り住んだ。

 移転後まもなく、母親は幼い彼を初めてギャリソンサバンナ競馬場に連れて行った。

 2010年のインタビューで、スタウトはこう振り返った。「鮮明に覚えています。競馬場を駆ける馬をただ見ていました。その色、動き、音、運動能力に圧倒されましたね。また連れて行ってもらうのが待ち遠しかったです。当時は競馬開催がさほど多くなかったので、ビッグイベントでした」。

 成長期のこの経験がきっかけになった。競馬が実施されているといつでも、スタウトは競馬場に面した庭の塀越しにレースを覗き込んだ。

 「馬に魅了されました。馬に関わる仕事がしたいという気持ちが揺らぐことはありませんでした。本当に夢中になっていましたので、あれほど近くで見られてラッキーでした」。

 6年後、父親が警視総監になったとき、一家は騎馬隊の厩舎に隣接する警察本部に移った。そして乗馬を学ぶ絶好のチャンスが訪れた。

 スタウトは当時を思い出し、「12歳でひどく熱中していました。新人警官が乗馬訓練に加わったときに、一緒に乗りはじめました。そこからずっと続きましたね」と語った。

 それから、バルバドスダービーを3勝した英国人調教師、フレディ・サーケルの厩舎を手伝うようになった。バルバドスとトリニダードのラジオ局でレース実況の仕事を得て、学校が休みのときはトリニダードのサンタローサパーク競馬場のあたりをうろついていた。

 トリニダードで頭角を現した有名人はスタウトだけではない。彼がラジオで働いた時期にちょうど、若き日のトレヴァー・マクドナルドも活躍していた。マクドナルドはそのキャリアによりITVの『ニュースアットテン』の単独キャスターの座を手に入れ、スタウトがナイト爵位を授与された翌年の1999年に同じ爵位を手に入れた。

 スタウト自身のキャリアも同様の道のりをたどったのかもしれなかった。1964年に19歳の彼は、BBCのレース実況チームに加わるつもりで渡英した。真冬のことで、雪が降りしきるなか、ノースヨークシャーのパット・ローハン厩舎に出向き自己紹介した。

 もともとアイルランド出身のローハン一家は、アイルランドのコークでスタウトの父親の友人(西インド諸島の最高裁判所に勤務)の隣人だった。そのつながりは、BBCでのポストをジュリアン・ウィルソンに奪われたスタウトにとって重要なものとなった。

 ニューベリー競馬場に行き、採用試験として最終候補6人が交代でレース実況を行った。ウィルソンがどのようにしてBBCの面接官と一緒に移動したのかについては数々のエピソードがある。ウィルソンは面接官と顔見知りになるために自腹でファーストクラスに乗り込んだのだ。一方、スタウトなどほかの候補は後部車両に乗った。障害競走の実況が割り当てられたことも、スタウトに不利に働いた。バルバドスには障害競走というものがなかったのだ。

 将来が宙ぶらりんとなったスタウトは、ローハンに厩舎で働かせてもらうように頼み、3年以上そこに勤めた。

 「ローハンのところで数週間を過ごし、絶対に調教をやりたいという自分の気持ちを確認しました。どこでかは分かりませんが、つねに競馬の調教という側面に魅了されるようになっていたのです」。

 多くの勝馬を出したローハン厩舎では幸せな日々を送った。ローハンは1968年に52勝を達成し、最多勝調教師になった。そのあいだスタウトは大いに楽しんだ。ローハンが教えてくれたことにつねに感謝していた。お互いに感謝の気持ちを抱いていた。

 ローハンは数年後、スタウトについてこう語った。「彼は素晴らしかったですね。鋭い観察力で、才能に恵まれていることがわかりました。厩舎ではどんな仕事でもやりました。一日中狩りをしたこともありました。歯止めが利かなかったので、二度とやることはありませんでしたが。3年後に、ニューマーケットに行くべきだと伝えました。彼は後ろを振り返ることはありませんでしたね」。

 ニューマーケットでの生活にも試練はあった。リーディングタイトルを5回獲得した元騎手、ダグ・スミスは1968年に調教活動を始めており、スタウトはその厩舎に加わった。スミスはすぐに全力で取り組んだ。年末にジャック・ジャーヴィスが亡くなったとき、そのパトロンである馬主ローズベリー卿がスミスに、「自分の調教活動に加えパークロッジステーブルにいる私の所有馬を管理してくれないか?」に頼んだ。スミスは同意し、その過程でパークロッジをスタウトに任せた。

 スタウトにとっては手ばなしで喜べるようなものではなかった。彼の指導のもと、パークロッジはすぐに電撃的な結果をもたらした。1969年にスリーピングパートナーが英オークスとリブルスデールS、クルーナーがジャージーSを制したのだ。いずれもローズベリー卿の所有馬である。スタウトはこれらの勝利に大いに貢献したが、嫉妬深いスミスにとってこれによりもたらされた静かな称賛は耐えがたいものだった。彼は当然、スタウトを解雇した。

 スタウトは傷つき職を失ったのかもしれないが、事実は白日のもとにさらされた。弱冠25歳で卓越した手腕を見せつけた彼は、トム・ジョーンズのアシスタントとして迎えられた。ジョーンズのもとでは2シーズンも働かずして、1971年末に独立した。そのころ、ジョーンズはアセンズウッドで英セントレジャーSを制覇していた。

 スタウトはウォーレンヒルのふもとにあるキャドランドコテージステーブルを借り、15頭を入厩させた。うち12頭は2歳だった。それ以外の馬のなかには、トレーニングセールで父親の代わりに5,400ギニーで購買したサンダル(せん5歳)がいた。

 喜ばしいことに、サンダルは1972年4月にスタウトに初勝利をプレゼントした。ギニー開催のハンデ戦でレスター・ピゴットを背にローハン厩舎所属馬などを撃退して優勝を果たしたのだ。サンダルは大いに活躍した。スタウトはシーズン末までに15頭のうち13頭を勝利に導いた。そしてキャドランドコテージは手狭になり、より広い厩舎が必要になった。

 その窮地を救ったのが、ローハン厩舎時代にノースヨークシャーで出会った妻パットである。彼女はビーチハーストステーブルを購入するのを手伝った。1973年にスタウトの手腕がさらに顕著になったことで、この移転はすぐに実を結んだ。

 そのシーズンに勝利を収めた2歳馬のなかにはブルーカシミアとアルファダマスがいて、それぞれ3歳時に4勝した。アルファダマスがグッドウッドのスチュワーズカップを僅差で制したあとに、ブルーカシミールがエアゴールドカップで優勝した。新人調教師のスタウトが英国で最も激しく競われるふたつのハンデ戦を制し、口先だけでなく行動がともなっていることを示したのだ。

 これらの勝利についてスタウトにふたつの不安を抱いていた。まずビーチハーストがギャンブル色の強い厩舎であるという汚名を着せられること、そしてスプリンターを得意とする調教師であるという固定観念をもたれることである。

 ブルーカシミールはハンデ戦を勝ち進み、1974年ナンソープSと1975年テンプルSを制覇した。しかし1976年の異常に乾燥した夏に、スタウトは才能を存分に発揮する絶好のチャンスを得た。

 ウィルシャー州ベックハンプトンで、ジェレミー・トゥリーが干上がったターフで管理馬を走らせられずイライラしていたのだ。そこでロングヒルに新しいウッドチップコースが敷設されたばかりのニューマーケットにいるスタウトのもとへ、インターミッションとブライトフィニッシュを送り込んだ。2頭はスタウトのもとで成長し、インターミッションはケンブリッジシャーH、ブライトフィニッシュはジョッキークラブカップ(現在のロングディスタンスカップ)を制した。

 スタウトはこう振り返った。「ジェレミーはとても寛大でしたね。若いときは、早く成長するために少しばかり運が必要ですが、これはそのひとつでした」。

 「ブライトフィニッシュが優勝したとき、オーナーブリーダーのスヴェン・ハンソン氏はニューマーケットにいて、馬が素晴らしい見栄えをしていると言ってきました。それもそのはず、毛並みは手入れの必要がないほど美しかったのです。それをきっかけに、彼はフェアサリニアを送り込んできて、のちに彼女は私に初のクラシック制覇(1978年英オークスを制覇)をプレゼントしてくれました。またそれをうけ、ほかの馬主も馬を預けてくれました。ちょっとした幸運が雪だるま式に膨らんでいったのです」。

 フェアサリニアはその後、ソーバスの失格をうけ愛オークス優勝を果たし、ヨークシャーオークスも制覇した。これらの快挙はアガ・カーン殿下も知るところとなった。父親のアリ・カーン殿下が1960年に車の衝突事故で亡くなったことで、アガ・カーン殿下は一族の貴重なサラブレッド血統を受け継いでいた。アリ・カーン殿下は生前、競馬事業をフランスに集約していたが、息子のアガ・カーン殿下は英国での存在感を改めて強化することが、牧場と生産事業を成長させるのに一番役立つと確信した。そして1978年の終わりごろ、1歳馬群をスタウトのもとに送り込んだ。

 それこそがスタウトが根気づよく築き上げてきた突破口だった。彼がトップに立つ運命にあることは明らかで、その目標に到達すべく疲れ知らずに働き、調教手腕を磨くためにあらゆる手段を模索してきた。世界選手権の金メダリストのスティーヴ・クラムのような有名なランナーやそのコーチと何時間も話し、競走馬やアスリートのトレーニングにおける相乗効果の可能性を探ったりもした。

 スタウトは1980年代初めにインターバルトレーニングの概念を試していた。障害競走の名伯楽、マーティン・パイプがその調教法を管理馬に活用するようになる前のことだった。スタウトは物事を深く考え、細部にこだわり、写真のような記憶力をもち、いつも馬を最優先にするような人物だった。ヘッドギアを装着して馬を走らせることはほとんどなく、解決策としてその使用が持ち上がると腹立たしげに反応した。

 また故郷ギャリソンとは対照的な地形である、広大で開放的なニューマーケットを愛するようになった。

 スタウトは2010年にこう語った。「1968年にここに来てからニューマーケットはがらりと変わりましたね。当時は現役競走馬が700頭いて、この町が扱えるほぼ限界でした。さまざまな人工素材の馬場が敷設されたことで、町は大幅に拡大しましたが、いまでもこの土地が大好きです。世界中のどこを探しても、これほど素晴らしい施設はないでしょう」。

 スタウトを頂点へと導くことになる馬は、1979年にアガ・カーン殿下が2回目に送り込んできた1歳馬群の中にいた。派手な流星のある鹿毛の牡馬で、父はグレートネフュー、母は比類なきムムタズマハルの子孫シャーミーンである。この牡馬こそシャーガーだった。

 シャーガーはジグソーパズルの最後のピースだった。1981年に3歳だったシャーガーは彗星のようにまばゆいばかりの白い光を放ちながら駆け抜けた。サンダウントライアル、チェスターヴァーズ、英ダービー、愛ダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSをたてつづけに制し、その合計着差は40馬身にもなった。英ダービー優勝時の10馬身の着差はいまだ破られていない記録である。

 シャーガーのおかげで、スタウトは1981年に初めてリーディングトレーナーに輝いた。シャーガーを皮切りに、スタウトはその後数年間にわたってアガ・カーン殿下のために急流のようにつぎつぎと重賞勝馬を送り出した。ダリアプール、ドユーン、カラニシ、シャルダリ、シャーラスタニがシャーガーに続いた。そのころまでに、スタウトの活躍は競馬界屈指の馬主たちの注目を集めるようになっていた。

 そして、競馬界で知らぬ者はないマクトゥーム三兄弟の馬を管理することになった。さらにチェヴァリーパークスタッドに加え、ワインストック家のバリーマッコールスタッド、カリド・アブドゥラ殿下、それから言うまでもなくエリザベス女王のためにも調教した。こうしてリーディングタイトルを10回獲得したことで、偉大なライバル、サー・ヘンリー・セシルの記録に並んだ。

 2024年に引退するまでに、スタウトはあらゆる面で競馬界の真の巨匠となっていた。故郷バルバドスで、のちに人生を豊かなものにしてくれる馬を庭の塀越しに覗き込んだ若者の将来の姿を想像できた者はそれほど多くはなかっただろう。

By Julian Muscat

[Racing Post 2025年1月2日「Barbados beginnings and BBC rejection: the extraordinarily eclectic roots of Sir Michael Stoute's life in racing」]

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