夏の海水浴と水着の今むかし。
夏真っ盛りですね。お盆は台風の影響もあって交通機関に乱れが出たりしましたが、夏を満喫できたという人も多いと思います。
夏といえば、海。春や秋の海もきれいだし、冬の海も哀愁が漂って好きという人もいるけど、やっぱり真夏の太陽がさんさんと降り注ぐ海はエネルギッシュで解放的な気持ちになれますね。
うだるような暑い夏は嫌だという人もいると思いますが、日常を離れたリゾート気分や心が癒されるオーシャンビューを味わえるのは夏本番だからこそ。
海水浴といえば水着ですが、最近はスクール水着が話題になっていますね。今までの水着といえば男女でデザインが違うのが普通でしたが、あえて男女共通デザインの「ジェンダーレス水着」を選択する動きがあります。
もともとはLGBTQの生徒向けに開発されたそうですが、男子、女子を問わず今までの露出の多いデザインに違和感がある生徒も少なくないことから、全国から反響があるといいます。
昭和から平成、令和になるにしたがって、スクール水着の肌の露出はどんどん抑えるようになってきています。昭和のむかしの競泳型やブルマのようなデザインの水着を見たことがある人もいるでしょう。
水着を着るのが嫌で、水泳の授業が嫌だったという人も少なくないと思います。これはマイノリティとかそうでないとかという問題ではなく、そもそも水泳をするのに露出の多い水着が義務づけられることへの違和感かもしれません。
少し前、ある教育委員長の発言がメディアで問題視されたことがありました。コロナ禍で密が避けられる状況の中で、「更衣室は全部女子が使って、男子は外で着替えてもいい」と発言したそうです。
この発言は各方面で批判されましたが、地方の教育行政の責任者が、あたかも男子の身体性を軽視するかのような意識を吐露したところに、従来の教育のあり方や風土の問題が凝縮されているようにも思います。
マイノリティ向けを意識して開発されたジェンダーレス水着は、肌を露出したくないと考える生徒たち全般から好反応を得ているといいます。このような意識には、顕著な男女の差はないようです。
教育の現場からは、思春期の女子が不用意に自分の肌や身体のラインをさらしたくないと感じるのと同じように、一定の割合の男子も同じような感覚を覚えていることが知られつつあります。
このような感覚は、時代とともに変化してきた部分もあるかもしれませんが、人間の身体性への感覚は必ずしも男女で明確に分かれるわけではないことの表われなようにも思います。
ジェンダーレス水着の存在は、これからますます社会有意なものになっていくような気がします。私たちのライフスタイルや男女ごとの価値観などは、生得的なものばかりではなく、学校教育や就活などによって社会的に刷り込まれていく要素も大きいといわれています。
その意味では、従来の水着などにおいて男子の身体性がおろそかにされてきた風土は、表面的には男性の権利の侵害でもあるけれども、全体の構造としては男性が女性よりも社会的に優位性を占める存在であったことの裏返しかもしれません。
つねに「男らしさ」を求められた男性は、自分の身体性がさらされることを恥ずかしく思うような“女々しい”言動を避けることが社会的に共有される一方、女性に対して主導的で権力的な存在であることが許容されてきた部分も小さくないように思います。
身体性を恥ずかしがらない→堂々と自分をさらけだす→そうでない属性のものたちに抑圧的になる。このような構図は、必ずしもすべてにおいて共通するとまではいえないにせよ、ある程度社会的にも共有される意識として根づいてきたのではないでしょうか。
話はもどって、真夏のリゾートの海水浴場。ギラギラとした灼熱の太陽が砂浜に反射する中、色とりどりのパラソルがひしめいて、思い思いの人たちが「今年の夏」を満喫していますが、いわゆるむかしの「スクール水着」を着ている人なんてまずいません。
体型を隠すパレオを身にまとう人や、日焼けを嫌ってカーディガンを羽織る人、ワンピース姿のまま波打ち際に近づく人や、水着の上にTシャツを着たまま軽く泳いでいる人もいます。
このような光景を不思議に思う人はいないでしょうし、学校の授業でもないかぎりは、みんながまったく同じデザインの水着を着ている光景の方がむしろ気持ち悪いでしょう。
もちろん、ひとつの教育方針に基づく授業や競技においては、一定の統一的なルールが必要だとは思います。とはいえ、オリンピックや国際大会においてすら、むかしのような競泳型の水着を着ている人が少数派な時代です。
ランドセルのカラーがまさにキラ星のように多様化して、ビジネスマンたちのスーツ文化のありようも良い意味で柔軟化してきたご時世。実用的な面からも、そして過剰な「男らしさ」や「女らしさ」を脱却する面からも、水着の新しいスタイルには期待したいですね。