紅白まふまふと女声、男声
昨年のNHK紅白歌合戦に初出場したまふまふさんが、話題になっています。番組終了後に公開されたNHKの公式ユーチューブでもダントツの再生回数を誇り、まふまふのユーチューブチャンネル登録者は334万人を超え、演奏曲「命に嫌われている」の再生回数はなんと日本人の人口に匹敵します。最近の紅白離れ、コロナによる歌手人気の二極化の加速の中にあって、一種の社会現象ともいえるかもしれません。
まふまふはインターネット上で若年層から人気沸騰中でしたが、年齢層が高い紅白の多くの視聴者の間では、放送までほぼ無名の存在だったといわれます。爆発的な人気を席巻した理由は、何といってもその歌声。独特のビジュアルと世界観と時代をえぐるような歌詞にどんどん引き込まれていきますが、大晦日に家族団らんでながら見をしていた多くの視聴者は、あまりに華麗で透明感のある歌声に、彼が白組で男性歌手として出場していることを完全に忘れさせられたのではないかと思います。
まふまふは女性の声を意識して歌唱しているわけではありませんが、少なくとも素人が聴くかぎりでは10人中9人は女声だと認識させられる気がします。彼が咽喉科を受診したときドクターから「女性の声帯」だといわれたエピソードがあることからも、女性歌手に匹敵するクオリティを誇るのは間違いないでしょう。一般的に女声は安心感や親近感を与え、男声は頼りがいや勇敢さを感じさせるといいますが、その意味は男性が女声で歌唱するとまた変容するようにも思います。
男性シンガーでありながらほぼ女声で歌う、まふまふの人気は、あたかも男が女性の声を模してステージを盛り上げるもの珍しさや、物理的に高度なハイトーンの音域を完璧に歌いこなすことへの驚きだけではなくて、現在において男らしさ、女らしさのあり方が流動化し、これからの多様性の向かう先が問われつつ、そう簡単には着地点が見つからない時代を投影しているのかもしれません。それは、まふまふを称賛するさまざまな声の中で、彼の声が女性的であることに注目する意見はさほど多くはなく、男性的、女性的にこだわらない独特の世界観が評価されていることからも読み取れる気がします。
歌唱の世界では、男性でもセオリー通りにトレーニングを積むことで、音域的には女声に近づけることが知られます。実際に多くの一流ボーカリストは女性の声の音域をいとも簡単に発声し、女性ボーカルの曲をカバーしても完全に自分の曲に置き換える技量を持っています。もちろん、それは女性ボーカリストが男性の曲をカバーして自分の世界観を綾なす際も同じだと思います。物理的な音域の幅と歌唱における男らしさ、女らしさは、必ずしもイコールの関係になく複雑に入り組んでいるものの、その人の表現の幅が広がることによってジェンダーを超えた独特の世界が実現するのかもしれません。
紅白といえば、2年ほど前に氷川きよしが女性的な衣装で演出したことで話題になりましたが、今はその時代からもさらに変化しているようにも感じます。男性が女性の要素を取り入れるとか、女性が男性のように振る舞うといった二項対立の中での相互乗り入れの構図を超えて、もはや男とか女というそもそものカテゴリーにこだわらない「自分らしさ」を表現することがごくごく自然の時代が近づいている予兆のようにも思います。男性が女性のアイテムを取り入れると世間を敵にまわすという価値観の世の中は、早晩終焉していくのではないでしょうか。
まふまふの曲を聴いていると、ハイトーンな声の魅力が心に響くだけではなくて、そんな近未来像が脳裏にじわじわと映し出されるような気がします。男が女性化したり、女が男性化することを必要以上に恐れる文化は、未知の未来への不安を軽減化する担保にはならないように思います。男が女の要素を持ち、女が男の要素を持つことを「中性」と呼ぶならば、中性の持つ積極的な意味についてタブーなく考え、文化的のみならず社会的な意義を帯びる存在として評価していく時代なのではないでしょうか。