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42 二・二六事件
本時の問い「陸軍皇道派が二・二六事件をおこした背景には何があったか。」
本時の授業は、二・二六事件について扱います。時期は斎藤実内閣から岡田啓介内閣をへて広田弘毅内閣が成立するまでです。本時の問いは「陸軍皇道派が二・二六事件をおこした背景には何があったか。」でしたね。
陸軍内部の対立
軍部の発言力が強まるなか、陸軍内では皇道派と統制派が対立していました。まず両派について説明をします。
皇道派は天皇親政をめざす急進派で、国家改造のためにはテロも辞さないという考えを持つ隊付の青年将校を中心としたグループです。犬養毅内閣から斎藤実内閣の間に陸軍大臣を務めた荒木貞夫や陸軍教育総監の真崎甚三郎が中心人物でした。
統制派は軍部の強力な統制のもとで総力戦体制の構築をめざす中堅幕僚層を中心としたグループです。その中心には永田鉄山や東条英機がいました。
両者はもともと総力戦体制樹立を目標としていたことでは共通していたのですが、荒木貞夫が陸軍大臣を辞任した頃から両者の対立が見られるようになります。
陸軍パンフレット問題
1934年、斎藤実内閣が帝人疑獄事件で総辞職すると、再び海軍穏健派の岡田啓介内閣が成立します。
同年、陸軍統制派が中心となって陸軍省から「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットが発行されます。陸軍が政治・経済の運営に関与する意欲を示したこのパンフレットは、軍の政治介入との批判がありました。一方で無産政党の社会大衆党幹部は賛同の意を示しています。軍と社会主義はあいいれないもののように思いますが、なぜ社会主義者がこれを受け入れたのでしょう。このことについて陸軍パンフレットのなかで掲げられたスローガンから考えました。
「国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要」(「国防の本義と其強化の提唱」より)
「勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済」というのは、経済格差の解消を唱える社会主義者にも受け入れられる政策です。
このような政策を掲げたら、労働者や農民が陸軍に政治の変革を期待するようになるのも理解できるのではないでしょうか。
天皇機関説問題
1935年、天皇機関説問題が発生しました。きっかけは、貴族院議員で軍出身の菊池武夫が天皇機関説を反国体的として、同じく貴族院議員だった美濃部達吉を非難したことでした。天皇機関説は明治憲法体制を支えてきた正統な学説です。この問題は天皇機関説攻撃を通じて、岡田内閣や天皇機関説による明治憲法体制を支えてきた天皇の側近たちを攻撃しようとした事件と見た方が良いでしょう。岡田啓介内閣は内閣に対する攻撃を回避し天皇の側近を守るため、国体明徴声明を出して天皇機関説を公的に否定し、美濃部の著書を発禁処分としました。美濃部は貴族院議員に追い込まれ、美濃部の師で枢密院議長だった一木喜徳郎は職を辞し、内大臣牧野伸顕も辞任しました。
二・二六事件
1935年8月、皇道派の相沢三郎中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を惨殺する事件が発生しました。これは陸軍の主導権を握ってきた統制派に対する皇道派のあせりとみることができます。1936年2月26日、追い詰められた皇道派の一部青年将校が、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲い、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郞教育総監らを殺害し、皇道派政権樹立をめざしてクーデタを起こしました。二・二六事件です。
このクーデタは、天皇が厳罰を指示したこともあり、反乱軍として鎮圧されます。その結果、陸軍では皇道派が一掃され、皇道派に影響を与えた右翼の北一輝は銃殺刑、陸軍の主導権は統制派が握ることになりました。
広田弘毅内閣
二・二六事件をきっかけに、軍の内閣に対する政治的発言力が強まります。岡田啓介内閣の辞職後に成立した、外交官出身の広田弘毅内閣は組閣人事などで軍の要求を受けて成立した内閣です。また、内閣成立後も陸軍の要求によって軍部大臣現役武官制を復活させます。(1936年)
今回の授業では、軍の影響力拡大がはっきりとしてきました。今日はここまでとします。
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