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38 ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題

本時の問い「浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことは本当に統帥権干犯か。」

第38回目の授業では浜口雄幸内閣の外交、ロンドン海軍軍縮条約について扱いました。本時の問いは「浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことは本当に統帥権干犯か。」でした。

第2次幣原外交

浜口内閣の外務大臣は幣原喜重郎です。幣原外相は山東出兵や張作霖爆殺事件などで悪化した中国との関係の改善をはかります。1930年に中国と日中関税協定を結び、条件付きですが関税自主権を認めます。

協調外交

欧米との関係では、イギリスの提唱で1930年に開催されたロンドン海軍軍縮会議に参加しました。これは補助艦(巡洋艦、潜水艦など)の保有量の制限を取り決める海軍軍縮を取り決めようとしたものです。浜口内閣は緊縮財政の徹底のためにも海軍軍縮が必要と考えていました。

会議ではアメリカ・イギリス・日本との間にロンドン海軍軍縮条約が調印されます。しかし、この条約は当初、日本が目標としていた補助艦の保有量を対米7割にすることが認められませんでした。大型巡洋艦の対米7割が認められないなど、日本は妥協して条約の調印に踏み切ったのです。

海軍軍令部長加藤寛治はこれに強く反発します。しかし浜口内閣は昭和天皇や元老西園寺公望などの支持を背景に条約調印を押し切ったのです。

これに対し、野党立憲政友会・海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部長の反対を押しきって政府が兵力量を決めたことは統帥権の干犯だと激しく攻撃しました。(統帥権干犯問題)天皇の支持もあり、浜口内閣は条約を批准しますが、政府と条約反対派の間の激しいやりとりは続きます。そのなかで、1930年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されるという事件がおこりました。浜口内閣は翌年に退陣し、浜口首相はまもなく亡くなりました。

統帥権

大日本帝国憲法第11条では、軍の最高指揮権である統帥権が天皇に属しているとしています。そして統帥権は内閣からも独立するものと解釈され、統帥権の発動には陸軍は参謀本部長・海軍は海軍軍令部長が直接参与しました。さて今回のような兵力量の決定は統帥権にあたるものなのでしょうか。

編成大権

大日本帝国憲法第12条には、天皇が陸海軍の編成と常備兵額を定めるとあります。これを編成大権と言います。兵力量の決定は国家予算の一部なので内閣の輔弼事項であるというのが、当時の憲法解釈の通説でした。美濃部達吉も統帥権干犯問題がおこったとき、兵力量の決定は内閣の輔弼事項であると浜口内閣を擁護しています。

この統帥権干犯問題は、政党内閣を打倒し軍部中心の政権樹立をめざす国家改造運動が本格化するきっかけとなりました。

今日はここまでとします。

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