9 明治初期の対外関係
本時の問い「明治政府は諸外国とどのような対外関係を築いたか。」
第9回目の授業では、1871年に岩倉使節団が米欧へ行ったこと、その使節団が帰国した1873年に征韓論争がおきたこと、1876年に朝鮮を開国させたことを授業の大枠としました。
本時の問いは「明治政府は諸外国とどのような対外関係を築いたか。」でしたね。
岩倉使節団の米欧派遣
まずは岩倉使節団のメンバーの写真から当時の政治権力についてを考えました。廃藩置県を終えて藩閥政府と呼ばれる状態に政府はなったことを学びましたが、その中でも薩摩・長州中心だということがわかりました。また、留守政府のメンバーがどのような思いだったのかと言うことも想像してみました。
次に岩倉使節団が派遣された目的と、帰国時には何を感じて帰ってきたのかについて教科書を元に考えてもらいました。使節団のメンバーは「日本を近代的な法律などを持つ文明国に改造しなければならない」と感じました。そして帰国後の政治は国内の近代化を優先する内治派が形成されました。
留守政府は使節団の派遣中に何をしたのか
岩倉使節団の渡航中、留守政府は精力的に内政改革に取り組みます。これまでに学んだ、学制、国立銀行条例、徴兵令、地租改正条例はこの1871~1873年の時期に実現したものです。このような急激な改革は政府に対する不満を高めることになります。その中でも士族がその特権が奪われていくことに不満を強めます。このような人々を不平士族といいました。留守政府は不平士族の政府に対する不満を外へとそらすため、当時日本からの開国要求を拒否していた朝鮮を武力を用いてでも開国させようと考えました。そこに不平士族の活躍の場を与えようとしたのです。
注意点として、なぜ日本は朝鮮の開国を急いでいたのかを話しましたね。
明治六年の政変
岩倉使節団の帰国後、朝鮮の開国をめぐり征韓論争と呼ばれる政治的対立がおこりました。内治派と征韓派の対立ですが、ここまでの説明があれば、誰がどちら側にいたのかはわかりますね。結果として征韓派は政府を辞職しました。このことを明治六年の政変といいます。征韓派辞職後の政権は大久保利通が主導します。
大久保政権の外交
内治派の大久保政権は国内の近代化を優先する立場をとります。改革に専念するためには外国とのトラブルが大きくなり戦争になることは避けなければいけません。戦争になれば不平士族たちに活躍の場を与え、彼らと結びつく征韓派が発言力を回復する可能性がありますから。
しかし当時の日本には他国とのトラブルとなる火種がいくつかありました。その解決に大久保は取り組まなければいけません。
琉球問題
1871年の琉球漂流民殺害事件をきっかけに清国との間に琉球の帰属をめぐり対立が生じます。1874年に西郷従道が独断で台湾出兵を強行したことに清国は強く抗議し、日清間の対立は厳しさを増しました。しかしイギリスの調停により何とか戦争の危機を避けることができました。この後、政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置し清国との国境を明確にします。
樺太問題
日露和親条約で樺太は両国人雑居の地とされました。これにより樺太では日露間のトラブルが起きるようになります。この対立を避けるため、1875年に樺太・千島交換条約を結びます。
朝鮮問題
1875年、日本の軍人が引きおこした江華島事件をきっかけに、翌年には日朝修好条規が結ばれます。この条約を結んだことで朝鮮は開国したので、征韓論は根拠を失うことになります。
こうして大久保政権は外交問題を最悪の事態を避けながら解決し政治権力を固めていきました。ここまでが今日の内容です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?