37 浜口雄幸内閣による金輸出解禁

本時の問い「金解禁は日本経済の何を変えようとした政策だったか。」

37回目の授業は、1929年7月から1931年4月まで続いた立憲民政党の浜口雄幸内閣の経済政策について扱いました。本時の問いは「金解禁は日本経済の何を変えようとした政策だったか。」でした。※金解禁=金輸出解禁のこと

日本経済の再建へ

浜口雄幸内閣は、大蔵大臣の井上準之助を中心に日本経済の再生に取り組みます。日本経済再建のカギは、金輸出解禁を実施することで金本位制に復帰することと浜口内閣は考えます。これは当時の経済界も求めていたことで、金本位制に復帰することで為替相場の安定をねらいました。

1929年頃の円為替相場は、100円=46.5ドル前後でした。それを貨幣法にしたがって、100円=49.85ドル(旧平価といいます)で解禁すると何がおこるかわかりますか?

例えば日本で100円の商品が、1929年段階はアメリカで46.5ドルで売られていた(輸送コストなど全く考えないで単純に考えます)のに、1930年に金輸出を解禁すると、いきなり49.85ドルに商品が値上げしてしまうことになります。これで日本の輸出が増えると思いますか?増えませんよね。(ただ、逆に外国の製品は安くなることになりますから、輸入は増える可能性があります)

浜口内閣の金輸出解禁の政策は、このようにあえて日本経済を厳しい環境にさらします。それによって企業努力を促します。例えば商品の価格を安くする努力や商品の品質を高める努力をすることで、日本企業の国際競争力をつけようとしたのです。これを産業合理化といいます。また、政府も緊縮財政をおこなうことで物価を引き下げて、ここでも国際競争力の強化をはかりました。

痛みをともなう改革を国民に理解してもらうため、浜口内閣や井上蔵相は丁寧に説明しました。そして1930年の総選挙では、与党立憲民政党が273議席、立憲政友会が174議席と与党が圧勝しています。国民も日本経済の再生のための痛みをともなう改革を理解したのでしょう。

タイミングが最悪だった

しかし、金輸出再禁止を1930年1月に実施したことは、結果的に最悪のタイミングでした。1929年10月にニューヨークのウォール街で株価暴落が発生し、それが世界恐慌に発展します。そのため、日本経済は金輸出解禁による不況に加えて、世界恐慌による不況が重なり深刻な恐慌状態におちいります。これを昭和恐慌といいます。

輸出は大幅に減少し、最も重要な輸出品である生糸の価格は暴落して製糸業は大打撃を受けました。一方で外国から安い製品が流入し、大幅な輸出超過となります。これにより正貨である金が短期間に国外へ流出して経済界は混乱しました。

企業はその対策のため、操業短縮・人員整理・賃金の切り下げがおこなわれて、企業の倒産も相次ぎました。恐慌で輸出が減少したことが企業を苦しめただけでなく、それに産業合理化がおこなわれることで働く人々も苦しめる結果となったのです。

農村の不況はさらに深刻だった

昭和恐慌では農産物価格の暴落もまねきました。生糸輸出の減少は繭価を下落させ、これも農家の副収入を大幅に減らすことになります。さらに昭和恐慌によって失業した都市の労働者が農村に戻ってきたために農村の労働力は過剰になります。農家の困窮は厳しく、欠食児童や娘の身売りが社会問題となりました。

政党政治・財閥に対する不信が高まる

長引く不況は、国民の間に政府の経済政策に対する批判や政党政治・財閥に対する不信を高めることになりました。

今日はここまでとします。

補足:財閥に対する不信

1931年にイギリスが金輸出を禁止して金本位制から離脱すると、日本も再び金輸出を再禁止するだろうという予測が経済界に広がりました。財閥はそれを見込んで円を売ってドルを買い漁ります。どういうことかというと、例えば考えやすくするために円為替相場を100円=50ドルとして、10万円でドルを購入すると5万ドルを手に入れられます。金輸出を再禁止すると為替相場は円安へと動きます。例えば、100円=20ドルまで下がったときに、5万ドルを売って円を買えば25万円を手に入れることができます。このような昭和恐慌の中でドルを買い漁って利益を得ようとする財閥の姿勢に国民は不信感を持ったのです。

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