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娘と私の柔術 1969日 ③
久しぶりに2クラス参加して、夕方は娘と一緒に美容院に。
思った以上に疲れたよ…。
早く寝よう。
記憶をたどってみる
娘が柔術を辞める数カ月間はずっと険悪だった。
「なんで練習にいかないの?」
「なんで約束したことを守らないの?」
もっとちゃんとやってほしい、決めたことはしっかりやってほしい
私はただそれだけを言っていた、つもりだった。
いざ5月末で柔術を辞めようと娘と決めたときに
この5年間についてのことを考えていた。
スマホのアルバムを観ながら記憶を思い返していた。
…あぁ、そうだった、ちゃんと試合にも出ていたんだった。
練習にも週2、3は行っていた。
あまり楽しくないと言って頻度が減っていたときも、それでも道場に行っていた。
時に自由が丘に出稽古にも来てくれたし
女子練習会にも一緒に来てくれた。
柔術、やっていた。
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結局これが最後の試合になった
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本人なりに「柔術」と向き合っていたんだな、と改めて思い知らされた。
思い出した。
言葉が出なかった。
感謝の想いで胸がいっぱいになった。
感謝の行方
娘自身に対しても感謝と労いの想いを感じたし、
何よりもカルペディエムの先生方を始め、柔術を介して娘と私が出会った方々にはどんなに感謝してもしきれない。
本人が柔術と向き合い、自分なりにしっかりとやれたのは
先生方や周りの皆さんがいたからに他ならない。
三田の先生方…特に竹浦先生やハルキ先生には、柔術だけではなく学校生活やものごとの考え方、この先の生き方などたくさんのご指導を頂いた。
娘と真剣に対話して下った。
私自身も幾度となく、竹浦先生に娘のことを相談し助けてもらったよ…。
そして。
やはり現芦屋の岩崎先生の存在はとても大きい。
先生との出会い、そして先生の存在は、
透子が柔術を続けた大きな理由だった。
詳しいことは端折るけれど、小学5年生の頃に抜毛症を発症した。
理由は様々。学校、友達、家庭…。
本人も私たち家族もギリギリの状態だったと思う。
そんな時に大きな支えとなり、前向きな兆しを与えてくれたのは、間違いなく当時岩崎先生が率いる三田道場とキッズたちだった。
そして陽子さん。
ありがとうございました。
※当時の帯授与式の際のインスタ。
詳細はここに残してある。
私のスタンス
私は娘に柔術の選手になってほしいとか
試合に出つづけて勝ってほしいとか、
そんなことは思ってないし、思ったことすらない。
これは本当。
キッズまでの習い事で、その後はふんわり続けてくれたらラッキーだなぁと思っていたし、
やる気になれないならちゃんと手順を踏んでやめてもいいと考えてた。
私の(子供についての)夢があったとしたら、
陸上部に入って、都大会や関東大会、そして全日中を目指して日々練習をしてくれることだったし、記録や結果について一緒に考え一喜一憂しながら、娘の試合の応援に行くことだった。
陸上競技場の観客席から娘を応援したかった。
ハラハラしながら電光掲示板を見たかった。
今でも大学同期が子供の陸上の応援や試合の帯同をしている姿をSNSで見ると羨ましいなと思う。
でも、それは叶わなかった。
娘は陸上競技は選ばなかった。
やるのは本人だからね、そこに強制する気はない。
だからこそ。
半ば私のおまけのようなかたちで始めた柔術を、
5年…1969日という期間、
日々練習に行き、
試合にも出て、
帯も上がって、
たくさんの人たちに出会って、
本人が納得したところまでやり切ったことに
感謝しているし、嬉しく思う。
同じ競技を、同じ時期に、同じ空間でやれることができて、
本当に良かった。