アウトプット能力と吝嗇な自分
中学・高校と「練習日誌」を書いていたなー。
練習内容、食事の内容、その日の感想・反省。試合の時には壮大な文章を綴ったものだ。
誰に見せるわけでもなく、日々の自分の記録。
アウトプットすること、したいこと
日々、いろんな想いが巡っていて
これを言語化していけたらいいなと思う。
だけれど、その時になると適切な言葉や熱量が失われてしまって、うまくアウトプットできないししていない。
中高校生の時分は先の通り練習日誌をつけ、それ以外でも日々の感情をうまく発散するかの如くノートに言葉を書き綴った。
今、こうしてnoteに文字を並べる。
誰かに伝えたいとかではないはずなのに、第三者の目を気にしている。
本当に必要な言葉なのか、正直言葉に詰まる。
アウトプットの目的はなんなのだろう。
そもそもそんなことを考えていることがおかしいのかもしれない。それはわからない。
出し惜しみする、けち
それでも自分の中で、言語化したい、適切にアウトプットしていきたい、伝えたいというものもある。
それらを思うと、果たして今じゃなくもいいのではないか。
もっと後にした方が価値があるのではないか。
などどありもしないことを考えてしまう。
そうこうしていて、その出来事や想いがぼやけていって、結局アウトプットしないままに終わってしまうことがほとんどだ。
無駄な出し惜しみ。
なんだろう、感情をさらけ出すことの順番を考えている。
出したところで価値は変わらないのに。
どこかで感情がすり減るように感じているのかな。
私そのものは割と恬淡な人間だと思っているんだけど、自分自身の感情を出すことについては、結構けちくさいヤツなんだな。
毎日、何かを捻出するという行為はなにかと面倒だし手間だね。
でももう少し素直に、余計なことを考えずに続けてみようと思う。