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母という呪縛から
「毒親」という言葉が嫌いです。
とてもセンスのない言葉だと思います。
「毒になる親」はあっても親自体は「毒」ではないと思うのです。
私の両親は、私にとって親でしたが「親として機能」していませんでした。
とくに母は、衝動的な感情や言動で動くので私をひどく混乱させました。
母のする多くのことは私の中に深い哀しみを落としてゆきました。けれど、
「母は、どうしてあんなことをいったのだろう・・・」
「私の何がいけなかったのだろう・・・」
と思うことはあっても、母を憎んだり、恨む気にはなれませんでした。
それは、私の中に、私という人間は、ろくでもない甲斐性なしの父とどうしようもなく感情的な母の、このふたりの遺伝子を引き継いで生まれてきてそれが私という人間をつくっているからです。
この事は、どう足掻いても逃れられない事実で体中の血液を入換えたとしても、姿形が変わっても、たとえ戸籍を変えられたとしても変えようがないもの。
一生拭い去ることも、抗うこともできず、受容するしかないのだと思います。
ならば「どうしたかったか」と問われれば、私が生まれもったもの、たとえば、私が左利きであることや努力では変えられない容姿、できないなりに努力していこうとする過程、私がたいせつにしているもの、すきなことを否定せず、ありのままを見てほしかったです。
私は今、自分が何者なのか、何がすきなのか、どう生きたいのかよくわからなくなってしまい、皿一枚すら洗えなくなりました。
感覚や感情がわからなくなってしまったのです。
そして、私は、度々夫へ「これはどう思う?」「どんなふうに感じる?」と他者が感じる感覚を確認するようになりました。
それを訊いて私と人(他者)の境界線を見つけては、私という存在がどんなだったか拾い集める作業をしています。
いつのまにか私は私を消失し、母の姿をした呪縛(インナーマザー)に毒されて溶かされて吞み込まれてしまったのだと思います。
母という字は、「龶」を乗せれば「毒」に「艹」を乗せれば「苺」になります。
母というのは、時に人を殺してしまうような存在にも、甘く優しい包み込むような存在にもなりうる。
「毒にも甘美にもなる」母という人。母という者。母という存在。
私は今、51歳です。
娘という牢獄から脱して、初めて自分の人生を生きられそうです。
私にも共通する部分があると思い購入した
「母という呪縛娘という牢獄」齋藤彩:著を興味深く読みました。
疑問点が不明瞭なままだったり、綺麗にまとめすぎという印象は否めませんが、とても丁寧に事件を追った作品だと感じました。思うこともあるので、のちほど感想を書きたいと思います。