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たからもの(終)

〝朝焼けの鮮やかなオレンジが窓から鬱陶しい光を差し込んでいて気力を奪う。もうすべてが億劫だった。〟

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これで終わり。


 目を覚ますとわたしはいつものように、自室にひとりきりで横たわっていた。ベッドにあの男の姿はない。開け放った窓から差し込む日差しからは、甘い匂いは漂ってこない。朝刊を配って回るバイクのエンジン音が遠くから聞こえて、おおよその時間を察した。あぁ、また朝がきてしまった。

 夢だったのだ。あのオレンジ色に染まったうつくしい街も、彼のことも。安堵と落胆が交互に巡り、笑いさえこみあげてくる。いっそあのままくすんだオレンジ色の雨に打たれ、甘い香りを放つ液体を垂れ流して死ぬことができたらどれだけよかったろう! 甘い毒薬に魅せられた女が、甘い香りに呑み込まれた街を舞台に、甘い毒薬を垂れ流しながら死んでゆくのだ。なんて滑稽な夢。けれどそれが、呪いのような執着を断ち切る唯一の手段にさえ思えた。馬鹿げた夢だと嘲りながらも、穏やかな最期を願わずにはいられなかった。

 鏡のなかの自分自身と目が合い、思わず目を見開いた。痩せこけた頬は醜く削がれ、肌は青白く、髪には白髪がいくつも混ざっている。いったいこれは誰なのだろう。わたしはこんな顔をしていただろうか。確かに自分の姿が映し出されているのに、見覚えのない他人のように見えてならなかった。これはいったい誰なのだろう。わたしは、どこへ行ってしまったのだろう。わたしは、わたしは――。

 からだがぎしぎしと軋み悲鳴をあげている。わけても胃の内壁が熱を持ち、爛れて溶けているような気さえした。わたしはもう壊れているのだ。もしかすると、はじめからどこか壊れていたのかもしれない。大切なものを失くし、大切だったことさえ忘れ、なにひとつ上手に留めておけない。あまりに愚かで、情けない。

 朝焼けの鮮やかなオレンジが窓から鬱陶しい光を差し込んでいて気力を奪う。もうすべてが億劫だった。

 口のなかが酷く渇いていて、喉の粘膜が乾いて破れていきそうだった。何か飲まなくては。明日を待つ気力も残っていないというのに、からだは生に飢えている。からだと頭がばらばらで、なんだかとても可笑しかった。狂った行為にしがみつきながら生き長らえて、この先わたしに何が残るというのだろう。彼がわたしから離れていったあの日以来、ひとりきりでいるときはいつだって、わたしを睨み付ける母のつめたい視線と、軽蔑と憐憫をはらんだ彼の視線が交互に巡った。わたしは赦されたかったのだ。母に、彼に。失くすことを恐れたすえに行き着いた愚かな行為を。そうすることでしか留めておけなかった愚かな自分を。

 嘲りのような笑いが込みあげるままに口角をつり上げると、唇が引き攣ってぴりっと裂けた。

 

「そろそろ時間よ、降りてきなさい」

 階下から、母の呼ぶ声が聞こえて、慌てて階段を駆け下りる。

 ダイニング・キッチンには、一足早く席に着いた父がいかにも不機嫌といった表情で新聞を広げていた。

「彼、遅いじゃないか」
「そろそろ来るわよ」

 テーブルには、母の自慢の手料理の数々が、ところ狭しと並んでいる。

「おまえ、作りすぎじゃないか」
「だって彼、大学生でしょう。そのぐらいの子はこれぐらい食べるわよ」
「それにしても遅いじゃないか」
「しつこいと嫌われるわよ」

 いつからか、何度も何度も思い描いていた、彼を家に招き、父母とともに食卓を囲む風景。

 会ってほしいひとがいると切り出したわたしを、母は嬉々として、父は訝しむように見つめた。それから時間をかけてていねいに日取りを決めて、咳払いの増えた父に呆れながら、母とともに彼を出迎えるのだ。

「娘がいつもお世話になっています」
「いいえ、とんでもない。こちらこそ……」

 社交的な彼を、両親はきっと気に入るだろう。

 口の右端をつり上げながらていねいに食事を味わう彼を見つめる母の嬉しそうな眼差し。彼に酒を勧めながら酔いを深めていく父の満足げな表情。時折こちらに目配せをする、彼のうつくしい横顔……。


 来るはずのない未来に思いを馳せては、自分の置かれた現実に打ちのめされる。もう二度と役者がそろうことはないのだ。父も、母も、彼も。舞台は幕を開けることなく、役者はわたしひとりきりになってしまった。

 痩せ細ったからだをひきずるように一歩ずつ慎重に階段をくだり、ダイニング・キッチンへ向かう。一段、また一段と踏みしめるたびに階段の木材がギシギシと音を立てて軋んだ。

 たびたび客人を招いて自慢の手料理でもてなす母の趣味が高じた結果、ダイニング・キッチンには三人家族が使うには大きすぎる業務用冷蔵庫が鎮座していた。木を基調としたあたたかな部屋には不似合いな、つめたいステンレスの冷蔵庫。

 たくさんの食材がいつも美しく整列されていたこの冷蔵庫には、毎朝母が搾ってくれたオレンジジュースが入っていて、幼いわたしは帰宅するや否や真っ先にキッチンへ駆けたものだった。ふと、あのオレンジジュースが飲みたいなと、ひとりで使うには巨大な冷蔵庫の重厚な扉を開いた。

――そうだ、彼はいつもわたしのそばにいたのだ。

 噎せ返るような腐臭。いくつものパーツに切り分けられ黒々とした液体を垂れ流しながら横たわる、熟れた果物のようにずるりと変色したかつては人間だったはずのもの。わたしのたからものだったひと。

「だって、どうしても失くしたくなかったんだもの」

 来客を報せるインターホンが響く。この先に待ち受けている展開を、わたしはよく知っていた。

「あけてくれないか」
「……どうぞ」

 ぐにゃり、と腹のなかで何かがうごめいたような気がした。

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