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たからもの(3)

〝ていねいな手紙が、受話器の向こうから響くやさしい声にかたちを変えたころ、彼はわたしのはじめての恋人となった。〟

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 会うたびに必ずおくりものをくれるひとだった。

 背筋のしゃんと伸びた姿勢、どこか寂しげでありながらも凛とした眼差し。分け隔てなく親切で、紡ぐ言葉ひとつにも知性を滲ませるのに、嫌味なところがひとつもない――彼はわたしのはじめての恋人だった。


 彼とは学生時代に知り合った。まだわたしが高校生だったころ、羽目をはずしてひとり終電を逃して彷徨っていたところを彼が部屋へ招いてくれたのがはじまりだった。

 午前一時をまわったころだろうか。歩いて二時間ほどの距離を帰る勇気もなく途方に暮れていたわたしを、彼が見つけてくれたのは。

「こんな時間に制服姿で出歩いたら、補導してくれって頼んでいるようなものだよ」
「終電、なくしちゃって」
「あらら。じゃあ、うちにくるかい」
「……いいんですか」

 空気が澄んで肌を裂くようなつめたい夜だった。制服姿ではどこかに逃げ込むこともできずにからだはすっかり冷えきっていて、差し伸べられた手を不審に思う時間も与えられないまま、わたしは彼に導かれるように後をついて歩いた。いまも鮮明に思い出せる、見失わないギリギリの距離を取りながら小走りで追いかけたグレーのダッフルコートの後ろ姿。背の高い彼の、大きな歩幅。

 彼の部屋へ向かう途中、自転車に乗った警察官に制服姿のわたしが声をかけられてヒヤリとする場面があった。

「こんな時間になにをしているんだ」

 頭が真っ白になり思わずたじろいだわたしと、それを訝しんだ警察官。

「あの、わたし……」

「地方から会いに来てくれた妹と駅ではぐれてしまってこんな時間に。ご心配おかけしました……行こう」

 わたしと警察官の間を割って入るように遮った彼。気を付けて帰るようにと一言残して自転車を走らせた警察官を見送りながら、わたしはこの素性の知れない男のあまりにも自然な嘘に、込みあげてきた笑いを噛み殺していた。

「はいどうぞ、あがって」

 コンクリートの打ちっぱなしの壁が妙に目立つ、二階建てのこぢんまりとしたアパートに彼の部屋はあった。

 六畳ほどのフローリングの床に、スチールデスクとキャスターのついた回転椅子、アルミフレームのベッドが整列されているだけの無機質な部屋。冷蔵庫は見当たらず、真新しいキッチンにはパンの入ったビニール袋とパックに並んだ卵が無造作におかれている。

 なんてさみしい部屋だろう。「部屋は住む人を映す鏡」だと聞いたことがあるが、それが正しくあるならば、まるで監獄のようなつめたい部屋に住む彼は、罪人のように冷酷で慎重な人間であるかのように思えた。一方で、初対面の他人を容易く部屋に招きいれてしまうほど社交的で、無防備。彼の第一印象はまるでちぐはぐだった。

 見知らぬ男性の部屋へあがることへの緊張感に身構えていたわたしを気に留める素振りも見せぬまま、彼はひとりシャワーを浴びベッドに寝転ぶと、まもなく寝息をたてはじめた。なんて無防備なのだろうと呆気にとられたが、関係を迫られたり、朝までひたすら尋問のように詮索されたりすることに比べたらよっぽどありがたかった。気遣いもなければ、関心もない。きっと彼にとっては見ず知らずのわたしを部屋に招き入れることなど、野良猫を家にあげることと大差がないのだろう。

 朝までどう過ごそうか。彼の部屋をぐるりと見渡しても、時間を潰せそうなものは見つからなかった。テレビも、雑誌も。あるのは必要最低限の家具と、ほんの少しの文房具といったところだろうか。

 いったいこの男はどんな人間なのだろう。

 改めて見ると、睫毛は長く鼻筋はまっすぐにとおり、彫の深い美しい顔をしていた。眉はほどよく整えられ、唇が少し荒れている。毛先のくるりと巻いた柔らかそうな髪の毛は地毛だろうか。彼の寝顔を眺めながら、朝を待つことなくわたしの意識もとろけた。

「俺はもう行くけれど、好きなだけいればいいよ」
「え、でも……」
「鍵はポストにでも突っ込んでおいて」

 翌朝、朝食にと与えられた卵焼きの載せられたトーストを齧っていたわたしに部屋のスペアキーを託し、呆気に取られる間もなく彼は部屋を出て行った。

 おもしろいひと。無防備な姿を見たせいか彼に対して抱いていた緊張感はすっかり解け、むしろ彼に対して身構えていたことさえ滑稽に思えた。彼はいったいどんなひとなのだろう。デスクの隅に置かれていたブリキでできた灰皿には吸い殻が三本並んでいて、彼が喫煙者であると知る。デスクには「経済」という単語の混じった分厚い本が何冊も並んでいて、その方面に関心が高い人物と判じられた。大学生だろうか。いささかの後ろめたさを感じながら、デスクの引き出しやベッドの下を覗いてみても、雑誌や写真といった彼の生活の断片はなにひとつ見つからず、その不詳なさまにますます興味を惹きつけられた。

 

 後日、泊めてくれたお礼にと宛てた手紙にはじまり、何度も宛てた手紙のすべてに彼は返事をくれた。

 年齢は当時十七だったわたしの三つ上で、予想したとおり経済学を学ぶ大学生だということ。大学は彼の部屋から少し遠く、普段はバイクに乗って通学をしているということ。塾の講師のアルバイトをしていて、主に中学生を教えているということ。趣味はジャズミュージックのライブに通うことで、高校生まではアルトサックスを嗜んでいたこと。珍しい読み方をする名前には、のびやかで才徳に恵まれた人間に育つようにという彼の両親の思いが込められているということ。その両親も早くに亡くし、高校時代までは親戚の家に世話になっていたこと。親戚の家に孫が生まれるというので、遠くの大学を受験したこと。

 時間をかけて書かれたのであろう丁寧な手書きの文字で綴られた手紙は美しく、そらんじることができるほど読んだあと小さく折り畳んで呑みこんだ。

 きっとあれこそが、わたしの初恋だったのだ。

 手紙をひらく彼の姿を思い描きながら綴る文章に、祈りのような思いを捧げるようになったころ、彼への関心は好意へと成り変わり、崇拝にも似た感情さえ抱くようになっていた。美しく整列された文字の先に見える、社交的に見えた彼の孤独な一面。手紙のやりとりを重ねるたびに、分厚い物語を紐解くように彼を知り、そのつど深く惹かれてゆく。

 ていねいな手紙が、受話器の向こうから響くやさしい声にかたちを変えたころ、彼はわたしのはじめての恋人となった。

 恋人同士になってからは、それまで交換していた手紙の代わりにと彼は会うたびにひとつおくりものをくれた。

 彼に手を引かれて大きな猫のいる喫茶店を訪れた日の数日後には、どこから見つけてくるのか喫茶店で見た猫と同じ模様をした猫の置物を持って現れた。「どこで見つけてきたの」とわたしが笑うと、彼は満足そうに口の右端をつり上げて笑った。

 わたしがつくった弁当にはいっていたたこさんウインナーに感動した彼が、次のおくりものにたこさんウインナーを模したアクセサリーを用意していたこともあった。銀でできた、たこのウインナーのペンダントトップは、どうやらわざわざアクセサリーショップに特注したらしかった。

 最高にくだらなくて、何よりも愛おしい。彼のくれるおくりものはどれも素晴らしく、口にするたびにしあわせで視界が滲んだ。

 わたしを喜ばせたり、驚かせたりするために、彼が熱心に選んでくれたもの。彼がくれるおくりものは、彼の時間そのものだった。わたしが隣にいないときにも、彼が過ごした時間、見た風景にわたしが存在していた証拠。なんてしあわせな証だったのだろう。

 そうして、彼との交際は八年にも及んだ。

 知り合った当時は大学に通っていた彼は文具メーカーの営業として勤めはじめ、立て続けに父母を亡くしてすっかり気力を失ってしまったわたしは学校を辞め相続で生き長らえていた。

 古本屋で本を買いあさっては、わたしの家に引きこもり、彼とふたり並んで本をめくりながら過ごす週末。父母のいた部屋はあっという間に彼とわたしの本で埋まり、ひとりで暮らすには広すぎる古い戸建てに彼が通い詰めるような生活を送っていた。

 穏やかで、特別なことなどなにもなかった日々。きっとこの先も何の問題もないまま続いていくのだろうと、わたしは信じて疑わなかった。

 だから大丈夫だと思った。この人なら大丈夫だと。

「このあいだプレゼントした指輪、もう失くしたの」

 朝方、わたしの部屋で目覚めた彼が、アクセサリーを並べたドレッサーをぼんやりと眺めながら問いかけた。いつもなら、「ごめんね」と一言謝って濁してしまうところだった。どうせ彼はわたしがなにをどれだけ失くしたとしてもけっして咎めたりはしないし、深く追及することもない。

「違うの、失くしたんじゃなくて」

 そう切り出して、はじめて打ち明けた。手紙も、アクセサリーもすべてもらったおくりものはわたしのたからものであること。大切で失ってしまうのがこわくて、そのほとんどを呑み込んだこと。はじめて呑んだたからものは甘い匂いを放つ毒薬だったこと。幼いころから続けてきた、大切なものを失くさないための習慣。これまで誰にも打ち明けたことのなかった歪んだ行為。

「ごめんなさい。いままでどうしても言い出せなくて」

 一息で打ち明けて、それから感極まって涙があふれた。

 あぁ、わたしは誰かに伝えたかったのだ。紡いだ言葉は堰を切ったように溢れ出し、まるで呪文のように部屋に渦巻いていた。わたしはいったい腹に、どれだけの物を溜め込んでいたのだろう。これまでに呑み込んだたからもののすべてを、その愛おしさに彼に伝えてしまいたかった。

 嗚咽を漏らしながら泣きじゃくるわたしを見ても、もう彼はなにも言わなかった。長い沈黙は、永遠のようにも思えた。

 なぜわたしは、赦されると思ってしまったのだろう。

「どうかと思うよ」

 短い溜息とともにそう一言だけ言い放った侮蔑の混じったような彼の声はいまも頭にこびりついて離れず、思い出しては腹の奥がぎしぎしと痛む。はっきりとした拒絶。信じて打ち明けたのにという思いと、軽蔑されて当然なのだという思いが交互に頭を巡る。だって彼は気付いていたはずだった。会うたびに贈りつづけたおくりものをわたしがすっかり失くしてしまうことへの違和感に。

 なぜわたしはあのとき、赦されると思ってしまったのだろう。

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