
たからもの(5)
〝わたしは彼の帰る場所になりたかった。〟
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耳をつんざくような不快な声をあげてカラスが叫び出し、まもなく大粒の雨が突風を伴いながら急騰した水のような激しい音を立てて窓を打ち付けはじめた。雨。果たして、これは本当に雨だろうか。
窓の外から差し込んできたオレンジ色の光――あぁ、これはかおりだまだ。幼いころ、すべてなくしてしまったはずの、わたしの毒薬。わたしを導いてくれるひとすじの光。
朝の空に似つかわしくない騒々しさをともなって降りはじめたそれは甘い香りを放っているに違いないと、ベッドに横たわる彼を押しのけて窓に駆け寄った。開け放った窓から身を乗り出して空を仰ぐと、わたしの目論見どおり、オレンジ色をした無数の粒が腕を打ちつけ、わざとらしいあの香りが部屋中に舞い込んできた。
「なんて、きれい」
甘い毒薬の香りにあてられて、頭の奥が痺れてゆく。なんてしあわせな香りなのだろう。口角が自然と吊り上っていくのを止められず、思わず泣き出してしまいそうになるのを寸でのところで堪える。窓の外に手のひらを差し出しそれを掬うようにして受け止めると、あっという間に両手からこぼれ落ちそうなほど集まった。
オレンジ色の粒を口元に運ぶ。これが毒薬ならば、うつくしく消えてゆくことさえできる気がした。きっとわたしは、自分が疎ましくて仕方がなかったのだ。おそらく、わたしがそのことに気づくよりもずっと昔から。
めいっぱい頬張った途端に、粒状をしていたそれは口の中で弾け、とろりとした液体へとかたちを変えた。喉をすべり落ちてゆく、甘い落胆。こんなものをオーバー・ドーズしたところで、きっと終わらせることはできないのだろう。舌に絡みつくさらりとした甘さのあとに微かな苦味がまとわりついてくる、どこか懐かしい味。それは、幼いころに母の目を盗んで舐めていた風邪薬のシロップそのものだった。
「……ちゃん」
わたしの名を呼ぶ声が微かに聞こえた気がして、窓の外へ目を遣る。いったいどこから聞こえているのだろう。しだいに音量を上げて近づいてきているようにも聞こえるが、不明瞭でうまく聞き取れない。
耳鳴りのように響く雑音を探るように耳を澄ませる。
それは、空から聞こえているようにも、遠い街から響いているようにも聞こえた。
「気に入ってくれた?」
やさしくて懐かしい響き。あぁ、これは〝彼〟の声だ。
「これはあなたが?」
そうだ、彼はわたしにいつも素晴らしいおくりものをくれた。わたしの予想をはるかに上回る、素敵なおくりものを。
甘い香りを放つオレンジ色の粒がつくる海に呑み込まれた街。このオレンジ色に染まったうつくしい世界は、彼がくれたものなのだ。
あぁ、なんてすてきなおくりものだろう!
「いままででいちばん、気に入ったわ」
小さくつぶやき、瞳を閉じて腹に手を宛がう。
彼を、彼の姿を探さなくては。焦燥のような感情に急かされながらドレッサーの引き出しの一番上を開け、ペーパーナイフを握りしめて腹を横一文字に裂いた。恐怖も痛みもないことに驚きながら、ぱっくりと開いた傷口に指をかけ、ゆっくりとひらいてゆく。薄い膜を破るように腹を裂くと、あたり一面にオレンジ色をした生あたたかい液体が流れ出て、とろりと足元を濡らした。
「どこにいるの」
「ねぇ、どこにいるの」
彼からもらったたからもののすべてを、わたしは今も思い出せると思う。レポート用紙に綴られた手紙も、わたしの好きだった詩人の歌集も、アクセサリーの数々も。なのに、うまく思い出せなくなってしまった。記憶のなかの彼はいつもやさしかったはずなのに。わたしに微笑みかける口元の、そのうえの表情が浮かばない。彼はいったいどんな顔をして笑っていただろう。彼は、彼はいったい――。
「ごめんなさい」
「だってどうしても」
「失くしたくなかったんだもの!」
張り上げた声は爆ぜるような激しい雨音にかき消されて、自分でもよく聞こえなかった。
腹から漏れた生ぬるい液体がとろとろと零れ、足元にオレンジ色の水たまりをつくってゆく。薄れゆく意識のなかで彼の面影を探したけれど、やっぱりうまく思い出せなかった。柔らかく少しだけくせのついた髪の毛、薄い唇、美しく生えそろった歯、すらりと長い指。非の打ちどころのないひと。わたしの恋人だったひと。誰にも分け隔てなくやさしくて、誰とも目を合わそうとしなかった臆病なひと。
わたしは彼の帰る場所になりたかった。