エゴの上に成り立つ保育
保育業界にまたもや衝撃が走りました。
某私立保育園の園児が送迎バスの中で死体で発見された事件。
関係者ならびに保護者の皆様には、心よりお悔やみ申し上げます。
これは、他人事ではありません。いつ自分がそんな事故を起こすかもしれない、園が事故を起こしてしまうかもしれないという、尊い命による全ての子どもに携わる人間に対する『警告』です。
さて、何故今回初めての記事にこの題材を選んだのか…
まずその前に、少し私の事を書いていきます。
若い頃の私の夢は『定年まで常に保育の最先端で現役であり続けること』でした。
偉くなんかならなくていい。
技術や知識を学ぶ努力を重ね、誰にも負けない、誰もがそれいいね❗と言ってくれるような保育をする現役の保育士としてあり続ける事が、私の保育士としての夢でした。
その為に私は沢山の研修に参加しました。時に自分の時間やお金を使い、興味のある事から、保育で悩んでいた内容など、仕事のヒントになるような事には何でも貪欲に学びました。
ところが、そう、先ほど書いたように『自分の時間やお金を使って…』という部分です。通常、ほとんどの保育所は各市町村から保育の資質向上の為に幾らかの研修費用が保育士ひとりひとりに支払われますが、せいぜい研修1回くらいの費用が相場となり、研修は勤務扱いになります。その為、ほとんどの保育所の上司は他の職員との兼ね合いを考えて、1人の保育士がどんなに学びを得たいと願っても研修に行く許可をなかなか与えてはくれません。だからどうしても行きたいとなると、自分の時間やお金を使う他ないのです。
研修に行くと、様々な保育の方法や問題解決の糸口を見つけられます。なかでも、日々の自分の保育を振り返りながら、自然と心から反省し、悪いところは改善してもっともっと努力していい保育ができるようになりたいと明日の保育への意欲向上となる部分が、研修の最大のいいところだと思っています。
しかし、私のような考えの人ばかりではありません。
特に偉くなればなる程、仕事量が増え時間がなくなって、年齢と共に体力の低下も伴い、とても休みの日に遠くまで出向いて研修を受けたいとは思わなくなります。
更に、経験年数が高くなる程、
『わかって当たり前』『できて当たり前』と他者から思われてしまうのも悪い悪循環で、そんな他者からの印象が何故か『私はそんな研修に行かなくても大丈夫。』という過信に変わる人がいます。
果たして本当に『大丈夫』なのでしょうか?
私は現役の保育士の頃、転職で複数の保育施設で働きました。
しかし、そこで見てきたものは恐ろしい現実ばかり。保育施設内で保育士による沢山の虐待を見てきました。先輩が怖くて言えなかった事もあります。我慢できなくて、虐待をしていた当時の主任と怒鳴り合いの喧嘩をした事があります。虐待をしていた主任の事を園長に話して、諦めろと言われた事があります。そう、事件は常に現場で起きているのです。
しかし、上司が白を黒だと言えば、黒だと答えなければならない現実がありました。それが嫌で私は自分可愛さに、ただ保育施設を転職という形で逃げて子どもたちを見殺しにしてきたのです。
そんな時、ふと思ったのです。
私が望む、目指す保育はこんなんじゃない‼️
私が望む保育を行う事はそんなに夢物語なのか?ただただ当たり前のいい保育がしたいだけなのに、何故できない?自分のクラスだけが良ければ、後は知らん顔なんてできない。全ての子どもたちが、ありのままの状態を受け入れられ表現できる事は私にとっては当たり前。それは世間的にも当然の事のはずなのに、それが理解できない、受け入れられない保育士や上司、保育施設の多さにうんざりしていました。
園長になろうと決心したのは、保育の負のスパイラルを終わらせる為でした。
(他にも園長になる決心をした理由はありますが、詳しくはまた他で書きたいと思います。)
私はこの仕事にプライドを持っています。
未来を担う子どもたちに、大人である私たちが『悪い事は悪い。』『いい事はいい。』と言えないような、子どもたちに背中を向けるような保育はしない。私は常に前向きで子どもたちと向き合いたい。誰かに見られて困るような保育は絶対にしない。
でもそんな『プライド』は、本当はくだらないのです。
ただのエゴに過ぎません。
己を過信する事は、必ず何処か何かに歪みを生み出し、不具合が発生します。
『こんなはずじゃなかった。』『そんなつもりはなかった。』きっとそれは本当の気持ちだと思います。
事故や怪我は予期せぬ時に起こりうる。
しかしだからこそ、過信してはならないのです。
ありとあらゆる角度から、ありとあらゆる可能性を考えて
どんなに大変でも
どんなに人が足りなくても
どんなに時間がなくても
『きっと』や『多分』や『絶対大丈夫』なんて事はないという事をまずは認めて心に刻むべきです。
時に保育の現場では、やむ終えない判断と決断を迫られます。
それは、人間に関わる以上仕方ない場合もあります。
保育とは、その子どもがいる全ての保育施設や保育士たちのエゴの上に成り立っている。
私たち保育に携わる者はみな、その重みを常に感じて保育を行うべきです。
毎年保育施設で尊い命が失われるニュースを知る度に、私はそれを『尊い学び』と自分に刻みます。
同じ事故や事件が2度と起こらないように、起こさないように、今1度私たちは自分たちを振り返らねばなりません。
誰かの命を使って学ぶなど、これ程悲しい事があるでしょうか?
もう終わりにしましょう。
終わらせなくてはなりません。
どうかこの思いが、誰かの心に届く事を願って、亡くなったお子さまの安らかなご冥福を御祈り致します。