[ショートショート] 医学部を出た女
人里離れた夜中の山小屋の中で、若い男女が言い争いをしている。その傍らにある机の上には、中高年男性が腹を切り裂かれていて、血が流れている。
「あなたが父を殺したようなものだ」若い男が言う。
「あら私、嘘はついてないわよ」若い女が答える。
「医師免許もないのに開腹手術をして、結局親父は死んじまった」
「仕方ないじゃない。どうしても手術してくれって言うから」
「東大医学部を出たって聞いたら、普通は医者だと思うだろう」
「私が卒業したのは医学部の健康総合科学科よ」
「なぜ学科を言わなかった」
「聞かれなかったから。お腹が痛い、たぶん盲腸だ、助けてくれって言われたから、助けようと思っただけ」
「なぜメスや糸や針を持ち歩いてる」
「必要になるかもしれないから。メスは鉛筆を削ったり、リンゴを剥いたりするのに。糸と針は服が破れた時用に」
「そんなものを持っていたら、医者だと思うじゃないですか」
「思うのはあなたの自由。私は知らないわ。せっかく助けようとしたのに死んじゃうなんて本当に迷惑。何とかしてよ」
「何とかって?」
「あなたのお父さんの遺体をどこかに埋めて」
「そんな酷いことを」
「遺体を隠してしまえば誰にも分らないわ」
「遺体は担いで帰ります」
「ムリでしょう。見た感じ70キロくらいあるのに」
「じゃあ応援を頼むことにします」
「応援なんて迷惑だから。この辺に埋めて、仲違いして行方不明になったって言えばいいのよ。あなた大学どこ?」
「上智です」
「上智なんて。東大と比べたら偏差値が低いんだから私の言うことを聞きなさい。学部は?」
「理工学部です」
「理工でも上智じゃバカよ。情痴大学なんか」
その時、死んだと思われていた男が「ううう」と声を上げた。
「あ、生きてる」
「よかった。父さんしっかりして」
「腹が切れていて痛い。元の痛みはかすんでいる。それより血が止まってない。早く縫ってくれ」
「もう縫ったのよ」
「血が止まってない」
「おかしいわね。縫ったのに」
「縫えてないから血が止まらないんだろう。ちゃんと縫ってくれ、頼む」
「しょうがないわねえ。縫ってあげるわよ」
女は裁縫道具を取り出すと、傷をもう一度縫い始める。雑巾を縫うような手さばきである。
「縫えたわよ。血も止まったんじゃない」
「痛い、痛い」
「しょうがないじゃない、盲腸は取れてるはずよ」
「切ったところが痛いんだ」
「我慢して。そのうちおさまるわよ。あ、痛み止めがあるわ。これをあげるから」
女は錠剤を取り出し、中高年男性に与える。
「これからどうするんだよ」若い男が言う。
「助けを呼ぶしかないわね。ケータイは通じないんでしょ」
「通じない」
「私のも通じないわ。朝になったら山を下りて、助けを呼んであげる」
「逃げる気じゃないだろうな」
「逃げないわよ」
「傷害罪で告発されることを恐れて」
「緊急の人助けは罪にならないのよ。要請されたんだし」
「そうか、じゃあ頼む。オレは親父とここに残る」
「せいぜいパパと仲良くしてなさいよ」