サイドFIREという、令和のキャリアデザイン
駅前の駐輪場の受付や駐車場の警備で、高齢の男性が働く様子をしばしば見かける。むしろこうした場では、老後の男性以外を見ることが少ないくらいだ。
退職後のシルバー人材サービスは、人手不足の今、エッセンシャルワークの重要な担い手になっている。
しかし、炎天下や寒空の下でも立ち仕事をしているのはいかにも老体に鞭を打つようで、見ていて心細くなる。
同年代の同僚とのつながりを通して社会関係資本を持てることには大きな意義があるかもしれないけれど、多くの理由は経済問題だろう。老後資金が足りず、非正規雇用の時給仕事で生活を賄うのは、どう考えても苦しい。
学生のころ、起業した知人に「もし50歳くらいで会社がダメになってしまったら怖くないですか?」と訊ねてみたことがある。
彼からは「50歳にもなって路頭に迷ってる時点でダメでしょう。そこまでの人生で何をしてきたの?と逆に聞きたくなる」と、とても意識高い返答をもらった。
つまり、50歳までに「職業経験」や「人脈」や「手元資金」は十分にあって然るべきで、そこから身の振り方を選べるようになっているべきという話だった。
そのときは深々と頷いたものだったけれど、今のシルバー人材を見るにつけ、そんなに簡単な話ではないと思えてしまう。
20代で携わっていた仕事のスキルや業界自体が30年後に丸ごと雲散霧消することはあり得るし、30代までは保てていた体力や気力が50代には損なわれてしまうことはもはや想定内だろう。
60代になって周りが一線を退いていくとかつての「人脈」など役に立たず、年下の世代からしても使いにくい存在になり、やがて気づけばシルバー人材サービスしか受け皿がなくなるのは、この世の理という風情さえある。
(かつては「実家に帰って農家を継ぐ」みたいな手段が最後のセーフティネットとして機能していたかもしれないけれど、今はシルバー人材サービスの役目となっている)
そう考えてみると、「人的資本に依拠した稼ぎ方には限界がある」と捉えたほうがよっぽど「意識が高い」に違いない。
自分の能力に過度に期待せず、身一つで稼げる期間はしょせん限りがあると割り切る。「労働生産性を上げ、仕事の単価なり時給を上げよう」とか「転職や副業で給料を増やそう」いう発想もその前提から疑ったほうがいい。
早めに金融資産を確保して投資運用に投じたほうが、歳を経るごとに差がつくだろう。
人的資本はあくまでも種銭をつくるまでの腰かけ。今後は円安傾向が定着するなら海外へ出稼ぎに行って短期で稼ぐ。同時に投資リテラシーを鍛える。そしてなるべく早く資産運用と人的資本の二馬力体制(昨今の呼び方で言えば「サイドFIRE」)に移行する。
それがすでに「令和のキャリアデザイン」になっているような気がしている。
もちろん皆が皆、リスクテイカーとしてうまくいくでもないだろうし、エッセンシャルワーク自体は誰かが担う必要がある。若者が投資活動に片足を置き、エッセンシャルワークを敬遠するようになれば社会が成り立たなくなるという警鐘も至極もっともだ。
我が子には路頭に迷ってほしくないと思うあまり「教育が大事」と邁進したくなる親心は、自分たちだけ勝ち逃げして「エッセンシャルワークは負け組にやらせればよい」という傲慢さと裏腹かもしれない。
ほら、あんなふうになりたくなかったら勉強をがんばりなさい。
そう、けしかける母親。しかし、それだけではおそらく片手落ちの時代が訪れつつあるのだ。
今日も、駐輪場の係員を目にするたび、アンビバレントな視線を振り向けてしまう自分がいる。