料理を深く味わうには
初めて一人暮らしをするとき、最初に決めた家電は食器洗い機だった。
販売店で食洗機の目当てをつけ、その寸法が収まる台所を条件に賃貸物件を探した。(食洗機は水栓を分岐してホースで繋ぎ、さらに排水する場所も必要なので、必然的に流し台のまわりに設置するスペースを確保しなければならない)
これは、自分の中では「完全に自炊をする」という決意表明のようなものだった。
料理をつくるところまでは意欲的に向き合えても、片付けをする気力は残されていないことを避けるため(もしくは片づけが億劫になるあまり料理を遠ざけることのないよう)万全の備えを期した。
それから長い間、ずっと毎日自炊をしながら暮らしてきた。
今もぼくと妻は、自然に手分けをして料理をする。
具材を妻が刻み、ぼくが炒め、食器をぼくが並べて、妻が料理を盛りつける。パスを出し、アシストして、シュートする。ひとりがピアノを奏でれば、もうひとりが歌い出す。そんな調子で料理を進めるので、おそらく2倍速で仕上がっているはずだ。(これはこれで時短料理と呼びたい)
食事のおいしさは、そもそも料理をつくるところから始まっている気がする。
ものごとを深く味わうためには、一度つくり手にまわることが必須だとかねがね思っている。音楽も小説も映画も絵画も洋服も食器も、あらゆるものに言える。
食事をつくろうと思い立ち、レシピを確認し、具材を調達し、料理にとりかかり、味の調整をして仕上げるまでに、じつは折々で存分に「味わっている」のだ。
そのすべての過程を体験せずに食事だけを摂ってしまうと、味という結果だけにフォーカスすることになる。もったいない。一度でもそのメニューをつくった経験があれば、難しさも肌で判る分、料理人の巧さやこだわりにもきっと細かく気づけるようになる。
さて、今宵も夕餉の支度を始めるとしよう。